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【あの人122】S・Aさん

社会人になって、何にもの上司の下で働いてきたが、その上司の中の一人である。
彼の事を書こうと思いながら先延ばしにしていたら、亡くなってしまった。
彼は高校の10年ぐらい先輩と言うことで、うちの高校からの進学としては珍しい神奈川大学だという。
自分が入社した時には営業部でNo.2になっていたのかなぁ。
その後、ちょっとしたことがあって、仙台の工場に飛ばされた。(と、聞いた)
彼が仙台に勤務していた時に、偶然一関の喫茶店で会った。
その時、「仙台に来いよ」とか言っていたので、「いやぁ、呼ばないでくださいよ」と返したのを覚えている。
その後、本社の営業に復帰し、東京支社に行ったりしてポジションを徐々に上げていった。
その時にまた、「うちの会社で出世したいなら営業に来い」と誘ってくれたが、現場人の自分は笑ってごまかした。
彼は目の上のたんこぶと付き合うのも上手かった。
だから、自分も彼を見習って、まずは目の上のたんこぶから攻めていった。
これは、後にシステムを預かる身になる自分にとっては、とても有効だった。
やがて、彼は営業部のトップ、部長のもう一段上に昇っていった。
その後、何があったのか分からないが、うちの部署のトップが決まらないままだったので、スライドする形で取締役となりトップに収まった。
現場には優しくいい顔をしていたが、幹部にはかなり厳しい上司となっていて、確かに使い分けが上手かったなぁと今でも思う。
取締役のまま退職をして、その後に一度車ですれ違った時が最後になった。
今思えば、彼の後ろ盾があったから、自分も会社のトップや役員とのやり取りの方法を学ぶことができた。
彼と仕事をしていた時代が懐かしく楽しかったなぁと今でも思えるな。

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【あの人121】M・Mさん

中学2、3年の時の同級生。
小学校と高校は別。
自分が小中学と同級生、同じクラスになったこともある女性の従兄弟だという。
彼女、中学の時は体操部だった気がする。
同じクラスだったから、割と冗談とか言い合いながら楽しくやった記憶がある。
高校は別なので、付き合いは遠くなってしまったが、2年の時だったか、いつも行く喫茶店で偶然に会ったことがあった。
その時、彼女は彼と別れるとかそう言う話しをしながら一緒に帰った。
「頑張れ」とか、そういう事を言って慰めた記憶は無い。
「多分、自分の中では決めてあるんだと思う。別れるのも一つの道だよ」とか何とか格好良いことを言った気がする。
その後、彼とはどうなったかは知らないけれど、後の成人式や同級会で会った時は元気にしていたから、どちらの道を選んだにせよ、きっと自分の中では区切りを付けたんだと思う。
大学は、新体操をしたいと言う事で愛知県へ行った。
その頃は何で愛知なのか分からなかったけど、そういう体育関係が盛んなのが愛知だと今なら理解できる。
自分と同じ年なので、それなりに年を取っているのは確か。
きっと、すでに孫もいるのかも知れない。
何十年も会っていないけど、元気にやってくれていればいいな。

【あの人120】メンズショップ・ミタ

1979年にはすでに存在していたが、いつ頃まで営業していたのかは定かではない。
岩手一関の新大町に存在した紳士服店である。
元々は岩手の北上に本店があり、そこの2代目夫妻が一関で店を構えた。
友達が出入りするように自分もそこで買い物をするようになった。
当時リバイバルしていたアイビーやトラディショナルのショップで少しではあるが女性ものの洋服や小物も取り扱っていた。
もちろんトラディショナルである。
何歳ぐらいだったろうか、自分よりも5歳ぐらいの年齢差だったかもしれない。
旦那さんは口元にひげを蓄え眼鏡を掛けていた。
奥さんの方は少し小柄で旦那さんとの身長差が結構あったように思う。
友達から「六三四の剣」のモデルになった人だと聞いたが、実際に夫婦で剣道を子供のころからしていたというのは本当のことであるらしい。
この夫妻がモデルになったんだろうとは、今も信じているのは背景がそっくりだったからである。
自分と友達は、当然ながら買い物もしていたが、それ以上にあの店の片隅で雑談で時間を潰すことの方が多かった。
それほど、あの店と経営をしていた夫妻が楽しかったのである。
友達とかも連れて行って買い物をしてもらっていたから、少しは売り上げに貢献はしたのかなと思う。
一度、北上の本店へ行ってみたことがあった。
一関の店よりも大きくてどっしりとした感じがあったが、いわゆる紳士服店であった。
自分が学生を終わって仙台に就職してからは行くことも無くなってしまったが、Uターンをしたころにはすでに店は無くなってしまっていた。
洋服はある程度の流行ものだから、何かに特化したショップは経営が難しいのかも知れない。
奥の小さなスペースでコーヒーを飲みながら、この後何して遊ぼうかと作戦を練っている時間が楽しかったな。
ご夫妻は地元へ帰ったのだろうか、そろそろいい年になっているはずである。

【あの人119】M・Sさん

仕事上の大先輩である。
定年まで勤めあげ、さらに2年ぐらい延長で働いて退社した。
自分が入社した部署にいた人で、当時は特殊な技術を必要とする仕事を主にしていた。
仕事ではかなりしんどい時期もあったが、お互いに共通する趣味でバイクのツーリングやスキーによく一緒に出掛けたものだった。
ツリーリングでは幾度となく雨嵐の中を走ったり、スキーでは北海道へのツアーにもしたりしていた。
1990年代に入り自分の部署も今で言うIT化の波にのまれて行ったが、彼も何とかその技術も習得しデジタルへと移行することができたようだった。
その後に別々の部署になりフロアーが違ったり、通勤する場所が違ったりで、ほとんど仕事でのやり取りはなくなっていた。
それから彼は定年の年を迎え、雇用延長ということで自分のいる部署へ異動してきた。
しかしながら、体の不調を訴えて休職し治療に専念していた。
その後に無事復帰してきたのだったが、体力の限界ということで退社していった。
体調が良くなったら一緒に飲もうという約束をしたのだったが、いまだに果たせないでいる。
今年に入り、別の同僚から偶然に彼に会ったが、元気そうだったという話を聞いて安心した。
また、どこかで一緒に杯を交わしたいものだと思っている。

【あの人118】A・Iさん

今日、社内で懐かしい人に会った。
OB会の会議に出席していたらしい。
自分よりも7才ぐらい上じゃないかと思う。
彼の現役の時代に、同僚達とよく議論を吹っ掛けたものだった。
彼が、部署のNo.2になり特攻隊長となった時だったが、部署内でのIT化の進行になじめていなかったので不安があったのか、自分に「よろしく頼むぞ」と耳打ちをされた。
それはもちろん自分の仕事であるからサポートは当たり前だったが、行く末のさらなるITの進展を期待してのことだった。
それに加えて部署内のまとめ役とか若い連中とのパイプ役、補佐心得ぐらいの気持ちはあったかも知れない。
何しろ、その当時に部署内トップは元々営業畑を歩き取締役の名前まで付いていて海千山千の手強い人であったから、いざとなったらの時のための味方が欲しかったのだろうと思う。
また、No.2になる前はその時のNo.2から、相当にパワハラされていたのを何とか耐え凌いだという経緯があるのだから、味方を作っておきたいと思ったのもうなずける。
結局の所は、ずっと在籍してきた部署のトップにはなれずに、他の部署のトップとして栄転していったのだから、良かったのか悪かったのか。
その後、定年になった後に一度だけ飲んだことがあったのだが、社内で起きたある事件の真相と経緯を聴かせてもらえた。
今は、退職金と年金で暮らして居るということであるが、本人は中々苦しいと言ってはいたが、自分からは悠々自適な暮らしをしていると見えている。
いつか、そんなに遠くは無い機会に、また酒でも飲みながら現役時代の楽しかった話しをお互いにしたいものだと思っている。

【あの人117】Y・Mさん

小中高の同級生だけど、同じクラスになったのは小学校の3,4年生だけかな。
もう定年になったか知らないけれど、何歳かの同窓会で話しをした時には、仙台市で産業医をしているという事だった。
彼女の実家は、元々は歯科医であり一度だけその歯科の玄関から入ったことがある。
治療に行ったわけではないから、遊びに行ったんだと思う。。。とすれば、小学校3年生だろうなぁ。
4年生になって算数の時間によく競ったものだった。
組み合わせれた図形の合計面積を求めるという問題。
彼女の解き方は、図形の大きな範囲で捉え面積を求め、不要な部分を省いていくというやり方。
対して自分の解き方はというと、求めやすい形に分割した図形の面積をそれぞれ出して、それを合計するというやり方。
答えが合っていれば、算数的にはどちらでも良いのだが、合理的というと彼女の解き方であり、その合理性は少し後から理解できた。
その彼女の得意分野と言えば、漫画であった。
ノートにぎっしりと漫画が描かれてあり、その年頃の女子が描いたにしては美味かった。
そういう彼女、当時から男勝りであって、何だか憧れの存在でもあったろう。
医師を目指し始めたのはいつ頃なのか分からないが、自分の住んでる世界からは遠い存在になってしまった様な気がした。
医師といえば理系、自分は文系だったのでなおさら話す機会も無いままであった。
今は何をしているのだろうか、まだ医師を引退するには早すぎると思うのだが、開業医になったという話しは聞いたことがない。
企業の中で働いているとすれば、やはり定年はあり得るのだろうか。
一人でも多くの患者さんを救って欲しいと願っている。

【あの人116】T・I君

小中高と同級生だったけど、一度も同じクラスにはなったことがなかった彼。
小中の時は、顔は知っていたけれど、特に仲が良かったわけでも無く話しもほとんどしたことがなかったかも。
自分とはまるっきり正反対と思ったのは、どう見ても運動が得意では無さそうだったからかも。
ところがである。
高校の何年生だろう、2年か3年の時に彼が麻雀をするという事で、仲の良かった友達と卓を囲むことになり彼の家に行った。
麻雀の打ち筋ハッキリ覚えてはいないんだけど、そう悪くは無く強かった。
初めての時は、コテンパンと言うほどでは何にしても、彼には勝てなかった。
麻雀を通して友達になったのだけど、それ以外ではそんなに行動を一緒にするという事は無かったな。
彼が大学に進学してからは縁遠くなった気がするのだが、就職はNTTで岩手支店配属だったのだろう。
自分の長男と彼の長男が小中学校の同級生というのをPTAの父母会で知った。
しかも、自分が家を借りて住んでた所と同じ地域に彼の家はあったので、地区の行事などでは再び顔を合わせる事になった。
彼の奥さんは、確か青森出身で相当美人だった。
子供達が高校に進学したかどうだったかの頃に、自分の仕事で現場から本社へのデータ送受信が必要になったことがあった。
今であればインターネットを使って比較的簡単にできることが、その当時は結構大変な事であった。
モデムという音声信号を電話回線に載せてやる、あるいはデジタル情報をアナログ音声に変えてやるという装置の事である。
少し古い人であればパソコン通信などで使うピ~ヒャララという音がして回線に接続する装置のあれである事が分かると思う。
NTTの担当部署へ連絡をして、どういう経路でデータ送信をしたいかという事を相談していた。
何度目かに連絡を取ったときに、突然相手方から「〇〇、俺だ。T・Kだ。モデムを何台か用意したから貸し出す」と。
もちろん自分の名前と会社・組織名はNTTの担当部署へは伝えてあったから、その相談を共有して検討していてくれたんだと理解した。
何年振りかの短い会話ではあったけど、覚えていてくれたんだと嬉しかったなぁ。
彼も、もう定年になって雇用延長になっているのだと思う。
彼と、あの美人の奥さんは今でも元気にやっているのだろうか。

【あの人115】津谷ふれ

通称津谷ふれ、きっと年下だったのだろう。
当時、小泉海岸やたまいし辺りで波乗りをしていた連中からは「津谷ふれ」と呼ばれていた。
もちろん本名のはずも無く、通称と言うことになる。
宮城県本吉町から少し山間に入った所に「津谷」という地区がある。
津谷に住んでいたから「津谷ふれ」。
後半の「・・ふれ」は何を意味しているのかは、当時から分からなかったけど、あまり気にしたことも無かった。
彼はその津谷地区の自宅から10分か15分掛けて波乗りのポイントまで通っていた。
いわゆるロコサーファーである。
なので、そこそこ上手かった。
そこそこというか、自分よりはずっと上手くて、彼と波を取り合う時にはいつも負けてしまっていた。
肩から腕のパワーが結構あり、それでパドリングの速さが敵わなかったという事だろう。
波の乗ってからも、ポイントで争ったとしても、とうてい勝てない相手ではあった。
それまで車は何に乗っていたか分からないのだが、あるときにトヨタのMR-2という、ミッドシップにエンジンを積んだライトウエイトのスポーツカーに乗り換えた。
その車について何か話したことは無いけれど、当時の波乗り連中の中ではとても珍しかった。
何しろ、その車ではサーフキャリアが積めないので、サーフボードは助手席に積んでサンルーフから飛び出るというスタイルだった。
ちょっと想像してもらえると楽しいのだが、笑えるスタイルである。
何年間かは良く海で一緒になったけれど、自分の勤務スタイルが変わったりしてから会うことも無くなった。
今はもう海から上がっているだろうか。
元気にやっていてくれたら、それでいい。

【あの人114】N・Hさん

最近になって、あの子は同じ幼稚園だったかも知れないと思い始めている。
宮城県の気仙沼市よりも数Kmぐらい南に大谷海岸や御伊勢浜という海水浴場がある。
その子は、そのどちらかの海水浴場にいた。
まだ幼稚園の時代だから、もう55年以上も前の話である。
砂浜と陸の境目にはブロックが積み上げてあったりしているのが一般的な海水浴場だと思うのだが。
その子がそこに座っており、自分はそのブロックの上を海岸と平行に歩いていた時に会った。
そして、しばらく目を合わせたままであった。
目がくりっとして髪が縮れていたのはハッキリと覚えている。
当時は誰だったのか分からないままだったけど、高校の同級生に同じ誕生日の女子がいた。
誕生日が同じだと、何歳かの同窓会で初めて知った。
彼女は幼稚園の時から知っていたと言う。
それを同窓会の時に話してくれた。
その同級生が、海水浴場で会った子とどう繋がるのか。
確たる証拠も無いのだけど、ただあのくりっとした目が、最近になって高校の同級生の目に似ている気がしているのだ。
ただただ、その気がしているだけなのだが。
どうだろう。
もしまた同窓会があって会う機会があったら、確かめてみたいと思う。
現在も岩手一関に在住しているはずである。

【あの人113】Y・Kさん

もう30年以上も前の話になるのかなぁ。
友達の親戚だという話しだったな。
家業は、今はすでに無くなってしまっているが、ガソリンスタンド兼整備工場だったな。
俺が行きつけの店によく顔を見掛けていたので仲良くなって、そこの店中でバカ騒ぎを週末にはいつもしていた気がする。
その繋がりで、彼の同級生の女性達ともスキーをしたりするようになっていたな。
なんだろう、ちょっとヤンキーが入ったままの高校生がそのまま大きくなったという感じだったろうか。
だから、女の子たちにはよくもてていたな。
何だったんだったかな、パーティーかな、よく覚えてないけど、彼の家で飲んで朝を迎えたという事もあったな。
俺の家とは、遠いと言うことも無かったから、歩いて帰ろうと思えば帰ってこれたけど、帰らずに泊まったという事は楽しい夜だったんだろうな。
で、突然彼が結婚した。
高校の同級生だという。
その彼女の方は、同じ音楽サークルでの知り合いだったから、突然何年ぶりかで現れた時はビックリしたな。
彼女は女性同士のデュオで、市内ではそこそこの人気グループだったな。
それで、家を継ぐことも突然辞めてしまって、岩手盛岡へ引っ越し音信不通になってしまった。
家の中ではかなり揉めていたという話しを後から聞いた。
もうそろそろいい年になっているので、元気でやっているのかなぁ。

【あの人112】バイトの女子高生

自分が結婚して、子供が生まれるかどうかっていうぐらいの時だから、今から30年ぐらい前のことになるか。
岩手一関の市役所前、今のBook Offの所になるのだが、Joisというスーパーマーケットがあった。
当時は生協もできてなかったから、比較的大きめのスーパーとしては一番近かったのと、安心して買い物ができたことがあって、時々利用していた。
秋頃だったと思うけど、恐らくは一関二高の女子学生さんがバイトを始めた。
就職活動の一環だったか、自分のためのバイトだったかは分からないけど、制服を着ていたから、きっと学校がらみだったとは思う。
年が明けて春、卒業をした後も、その子はそのままそのJoisで働いていた。
就職をしたんだろうなという事が想像できた。
そこで何年いたのか分からないけど、その店舗が無くなったのが早いか、その女の子がいなくなったのが早いのかは定かではない。
そうこうしている内に、自分の方が東台の工業団地から本社のある駅前の社屋に異動してきた。
そして、どのぐらい経った頃だろうか。
会社の目の前の通りの角のお宅に、知らない内に花嫁さんが来ていた。
それから時々目にするようになったのだが、その花嫁さんはJoisで働いていた女の子であった。
それは、俺が別の部署へ異動した頃だったから、初めて見掛けた時から、おおよそ10年が経っていた。
あのJoisでバイトしていた女の子と確認できた時は、こんな偶然ってあるんだなぁとビックリした。
その後に、俺は本社から部署ごと移動して東台の工業団地にいるので、あの女性を見掛ける事も無くなったけど、きっとお子さんも大きくなって、ひょっとしたら成人になっているのかも知れないな。
時の流れは速い物だなと、つくづく感じるのである。(汗)

【あの人111】Hさん

仙台で最初に就職した会社の3つ先輩である。
社長専務を除いては一番年長だったなと思う。
思えば、会社訪問をした時に対応してくれた事務員さんが可愛いと思っていたが、まさかその彼女と結婚しているとは知らなかった。
彼は千葉大で写真専攻(今では画像科学科となっている)をした人だったから、かなり優秀な人だったろう。
仕事ではレントゲンフィルムを扱う仕事が多かったから、写真を勉強してきたと言うのも理解できた。
出身は大船渡で、お父さんは、大船渡にあった太平洋セメントに勤めていると聴いたことがあった。
自分が入社した年の暮れごろのに、彼が当時住んでいたのは仙台市の鶴ヶ谷団地で、一度夕食に招いてくれたことがあった。
その時にはすでに子供がいて、かなりの親馬振りを発揮していた。
次の年、仙台市の連坊辺りにマンションを購入して引っ越した。
そこは、仕事の通りすがりに案内してくれて、その時も奥さんが在宅だった。
自分が退職して2年ぐらいした後に、勤めていた会社がダメになったようなので、転職をしているとは思うのだけど、どうなっているのだろう。
あれからずいぶんと年月が経ったから、子供も40は過ぎているのだと思う。
もちろん彼も年は取っているのだから、そろそろ年金生活と言うことになるのだろうか。
元気で居てくれたら良いのだけど。

【あの人110】S・K君

今の会社で後輩だった彼、年で言うと2つか3つ位下だったはず。
自分よりも2年ぐらい遅く入社したんじゃなかったかな。
かれこれ30年以上も前のことであるが、多分5年ぐらい在席したと思うけど、部署は同じでもシフトが別だったな。
実際には、自分は別会社への異動になったので、実質1年ぐらいしか一緒に働いていない気がする。
なので、あまり彼との思い出は多くはない。
その中でも、なぜかハッキリと覚えていることがある。
彼がスキーツアーで山形蔵王からの帰りに会社に寄って、頼まれていたお土産を置いていったときの事である。
ベンチコートを着て仕事部屋に入ってきた。
そして、買ってきた牛タンスモークのパックをいくつか置いていった。
その時の光景が懐かしい。
とある居酒屋のマスターと同級生ということで、何年か前にお父さんの通夜の時に会ったと話していた。
それによると、あまり変わっていなくて、そのままの彼だったと言うことで、何となく安心した。
もうそろそろ定年になるはずであるが、ずっとあの時の彼のままだったのだと思う。

【あの人109】Iさん

仕事上の大先輩である。
自分よりも、いくつ年上なのだろう。
自分が40歳の時は、すでに定年になっていたのだから、そろそろ80歳の声は聞こえているのかも知れない。
いつも不機嫌な顔をしていた気むずかしい人であったが、時々何かの拍子に笑うこともあった。
それがとても珍しい。
自分としては、怒られたり文句を言われたりした記憶しか無いのだが、仕事上の事なので、後々には気にすることも無くなった。
通勤は電車だったはずだが、15km程南の駅が最寄り駅で、夜勤の時はどうやって通っていただろう。
当時は0時に終了になる仕事もあったはずであるが、家族の送迎があったとは聞いていない。
今も昔も午前零時過ぎにに発車する通勤電車は一ノ関駅には無い。
その夜勤の時は、会社で出前を取っていたのだが、自分が聞きに行くとほとんどの答えが「湯麺」である。
これは、働く場所が工業団地の方へ移ってからもそうであった。
なぜに彼はそこまで湯麺をこよなく愛したのか、今となっては聞くこともできない。
亡くなったとは聴いたことが無いので、きっと老後を楽しみながら存命なのであろう。
懐かしい人だ。

【あの人108】M・Oさん

専門の時の同級生。
仲が良かったという程では無いが、席が隣というときもあって何度かしゃべったりもしている。
出身は千葉県、きっと市町村も聞いたはずだが忘れてしまった。
彼女は俺と同じく大学失敗組であるが、俺よりは1つ下になる。
教師志望という話しを彼女から聞いたことがある。
スラッとして、いかにも都会風な女子だったなぁ。
何でか、初夏だったか夏だったかの暑くなっている頃の服装を思い出した。
シロのスカートかキュロットに、白っぽいサマーセーター。
襟だったか袖の所にレインボーカラーのラインが入っていた。
特徴的だったのは、しゃべる時の声がハスキーだった事。
八代亜紀ほどでは無いが、少しかすれた声をしていた。
そして、目が大きくくりっとしていた。
肩まであるか無いかのセミロングだった髪は、少しくせっ毛で横のところが、時々跳ねている時があったな。
クラスの女子のほとんどがそうであったように、ちょっと格好良い男子とかのグループに入っていた。
ちゃんと卒業もしたはずだから、どこかのSEかプログラマにでもなったかも知れない。

【あの人107】・・・

彼とは同じクラスでも無かったし、名前さえも知らない。
専門学校の時に、バンド一緒にやろうと誘ってくれた彼。
ある日、帰省するためだったか、友達のところに行くためだったか、学校にベースを担いで持って行ったことがあった。
学食で、その彼に突然「ベースやってるのか、今度一緒にやらない?」と声を掛けられた。
話しを聞いたらフュージョン系のバンドをしているらしかった。
当時の俺と言えば、東京のアマチュアベーシストの上手さと層の厚さにやられてしまい、バンドを組むなどと言う自信と勇気が無くなっていた時期だった。
だから、彼にも「ヒュージョンかぁ、俺には無理かも」と伝えた。
そうしたら彼から「是非一緒にやりたいなぁって言って欲しかったなぁ」と笑いながら返されたことがあった。
例え満足なベースが弾けなかったとしても、それが切っ掛けで別の道が開けたかも知れなかったのは、あれから何十年経った今でも残念だったな。
もう少し前に出る勇気があったら良かった。
その彼、今はもういい親父になっているはずである。
音楽も、きっと楽しくやってるに違いなな。

【あの人106】K・Sさん

ごく近所の人、今はどこに住んでいるかも分からない。
3人姉弟の末っ子、俺とは2つ違いぐらいだった気がする。
高校卒業後に、関東の銀行に就職したと聞いたのが45年も前の話し。
その後、何年か経ってから結婚したと聞いた。
彼女のお兄さんで、長男のKさんとは、小さい頃から仲良くしてもらっていた。
次女で末っ子のKさんとも、かなり仲がよかっと思っている。
家族が住んでいた家は、そろそろ朽ち果てようといているが、何気に末っ子のKさんをフッと思い出した。
身長はあまり高くなく、少し小太りだったような記憶がある。
確か、高校ではクラブにソフトボールをしていると聞いた気がする。
聞いたときはぴったりだと、妙に納得した。
遊んでもらっていたのは、俺が小学生の低学年の頃。
それ以降は見掛けることはあっても、何か遊んだという事はないだろう。
彼女のお父さんが亡くなったときに、葬式の手伝いをしたことがあったが、その時に顔を合わせた。
言葉を交わしたかどうかは覚えていないが、それはもう20年以上も前の話である。
今頃は、いいおばあちゃんになっているはずである。

【あの人105】Y・Uさん

もう何年前になるだろう。15年ぐらいになるのかな。
会社で業務用のシステムを構築・更新する時に、メーカーから派遣されてきたSEさんだ。
メーカーと言っても、日本のみならず、世界各国の誰もが知っている家電メーカー系のシステムメーカーさんだ。
どうしてSEになったのかと聞いてみたことがあった。
そうしたら彼は「最初は地元の工場に採用され、その工場でサラリーマン生活が終わるのも悪くないなと思っていた。組織変更の時に異動したが、その後に地元の工場が廃止されて帰るところが無くなってしまった。」と話していた。
彼から教わったことは、「一度決定したら、紆余曲折してでもやり通して完成させる事」と「LANケーブルの作製」であった。
この2つのことは、後の自分のシステム管理の大いなる指標となったから、とても彼には感謝している。
彼の所属していたシステム開発会社は、彼一人が現場に入り、必要に応じてその筋の専門家がきて開発するというスタイルだった。
もちろん彼のバックグラウンドには、色々な専門家がいて、そこで開発・管理していると言うことはあった。
ちょうど土木工事の施工管理のような感じであろうか。
彼との仕事は苦しくも楽しく実になる1年半であった。
無事に開発を完了し、現場で使用する我々側への教育も終わり引き上げて行った。
それからしばらくは彼を通して、不明な点や改善して欲しい点などをやり取りしていた。
システムが安定稼働するようになってからは、やり取りも無くなってしまった。
そして、そのメーカーの組織変更によって、別の子会社へと異動してしまった後に、退社したと言うことを、次のシステム構築の時に聞いた。
今はどういう仕事をしているのだろう。
出身地元に戻って、元気に暮らしているだろうか。

【あの人104】T・O君

これを書こうと思った時に苗字が思い出せなかったが、別のブログに転載しようとしたときに思い出した。
そうそう、T・O君だったよ。

同窓会に会った時の彼の言葉を思い出した。
「音楽やってたから、テレビに出るって、ずっと期待してたぞ。まだ出ないのか」
その同窓会の時は、残念ながらバンドを組んでることはおろか、ベースを手にすることもなかった時代だった。
再びベースを手にするのは、その同窓会から数年が経ったときだった。
だから、彼の言葉はその時は結構応えた。
というより、自分に恥じ入った気がしていた。
心のどこかでは音楽をまたしたいと思っていたけれど、やれるメンバーも見つからずに、音楽の事さえも忘れていた時期だった。
彼は高校の同級生で、応援団幹部だった。
進学は某国立1期校で旧制四校。
普通に考えても頭は良かったんだと思う。
それでも、高校時代の彼は気取らずに、そんな素振りも見せなかった。
それが、大学を卒業して探偵になったという噂を聞いた。
確か、本人からも探偵をしたことがあると聞いた。
いつ転職したのかは分からないのだが、今では教職員になっている。
そして、これまた同級生のK・Kさんと結婚していた。
彼の「テレビ」の言葉はずっと忘れたことがなかったが、アマチュアバンドでは出演するのはかなり難しい。
けれど、幸いなことに地元にはCATVがある。
そして、バンドを再開して、いくつかのバンドを経験した頃に、CATVの番組でライブ模様が放送されたのである。
地上波ではなかったが、ちゃんとテレビに映ったのである。

ちなみにうちの長男が小学校に在籍していた時に、K・Kさんは同じ小学校の教員だった。(笑)

【あの人103】H・O君

姓名で呼んだことはない。
もっぱらあだ名の「B」と呼んでいた。
同級生には同姓同名の人がいたし、他の中学にも同じあだ名の人がいたな。
中学の部活、卓球部で一緒だった彼。下手だったけれど、最後は努力が実ったね。
一年の夏休みだったかな、先輩から鏡の前で素振りの練習をしろと言われ、午前中の2時間を素振りだけしてた日を覚えている。
暑い日で、球拾いやラリーをしている自分たちも暑かったけれど、素振りをしていた彼も、ものすごく暑かったんだろうな。
素振りは何しろ、定位置でやってるものだから、床が流れた汗で色が変わるほどだった。
ものすごい汗だったな。
それでも、普段はニコニコとしていて、どことなく憎めないやつでもあった。
ずっと俺と同様に補欠だったけど、そういう真面目さが良かったのか、最後の公式戦では団体戦に出場したね。
結果は地区で準優勝だったかな。
県大会には行けなかったけれど、彼も満足のできる部活だったかも知れないな。
前の同窓会の時には会ったあろうか。
元気にやってるのかな。
今度、同じ出身の小学校の同級生から消息を聞いてみることにするよ。

【あの人102】M・U君

彼に会ったのは何年前だったろう。
結婚して奥さんを実家に連れてくるというので、ついでに同級生も集まって冷やかしながら、それをつまみに飲むかという感じだった。
彼は結婚が遅くなったので、ずいぶんと照れていたが、すっかり奥さんの尻に敷かれていた感じがしていた。
幸いと奥さんは酒が強くて、同級生の女性達ともわいわいと飲んだりしゃべったり・・・もちろん食べたり。
彼との付き合いは、小学校の3年生からである。2年から3年になり初めてのクラス替えで同じ3年B組になった。
うちは両親が働きに出ていたので、時々いろんな友達が来て遊んで行ったが、彼もその中の1人であった。
しかも頻繁に来ていたから、多分仲がだいぶ良かったんだろうと思う。
3、4年生は同じクラスであったが、それ以降高校を卒業するま同じ学校にいたが、一緒になったことはない。
小学校の3年というよりも、4年生になり遊びも野球が中心になってきた頃、中学になり野球部に入るような同級生と同様に、彼もまた頭角を現してきた。ここで頭角という言葉を使ったのは、他の同級生よりも頭1つ飛び出して野球が上手かったからである。
Sという、これまた野球の上手いお兄さんの影響だったらしい。
彼が自衛官になったと聞いたのは、20歳も過ぎて同級会に出席した時だったと思う。
それを聞いたときには、彼にはぴったりの職業に就いたなと思った。
どうしてかというと、彼の小中学生の時の、お兄さんの影響でのストイックな体の鍛え方を知っていたからである。
腹筋と言わず胸筋と言わず、同級生の中では誰よりも筋肉が発達していた。
そんな彼だったが、自衛官とは一般の会社員や公務員と違って、定年が早いのである。
階級によっては60歳定年もあるが、それはかなり上の階級である。
彼の属していた階級は、はっきりとは知らないが、それでも60歳よりはだいぶ早いのである。
あの時に、定年になったらどうしようかと、いろいろと思っていたのだが、その後は本人や同級生からも情報が入ってこないので、定年した後の暮らしぶりは分からない。
それでも、きっと奥さんと楽しく暮らしているだろうと思う。

【あの人101】T君

「がっちゃん」と呼ばれていた。
「がっちゃん」とは、マンガ「ドクタースランプ」の中に登場する金属を食べてしまう双子の赤ちゃんである。
どうして、「がっちゃん」と呼ばれていたかは、当時から分からなかったな。
彼は学生時代、静岡のどこからだったか、毎日電車で通っていた。
2時間半ぐらいかかるということだったけれど、恐ろしく遠いところから通うんだなとびっくりした。
首都圏で2時間半の通勤・通学時間とは、今になって思えば、他にも沢山いたに違いない。
高校時代はサッカーをしていたというから、静岡県内の高校なので、きっとすごいんだと思う。
あまり親しくはしていなかったけれど、何度か友達の輪に入っていて話をしたこともある。
なぜか、最近になって急に思い出した。
当時読んでいたマンガの主人公の苗字と同じである。
マンガの主人公の名前は「勇介」だったけれど、本人の名前は思い出せない。
なぜか雰囲気が似ていて、遠くを見ている感じがしていたが、身長は割と高かった気がする。
今はどうなっているのだろう。
地元に勤めたのかどうか、就職先も知らないし、どこへ住んだのかも知らない。
もうすでに孫がいてもおかしくない年齢になっているのだが、そういう現実とかけ離れたところで暮らしているような気がするな。
元気ならば、それでいいのだけれど。

【あの人100】・・・さん(投稿作品)

名字しか覚えていない。
私が、中学1年生の時、少しの間いた先生。
廊下に立ち止まっていた私に、優しく声をかけてきてくれた。
数学の時間には、その先生がいつもいて、私は、その先生を目でおっていた。
それに気づいた先生は、隣にしゃがんで教えてくれた。
その時間が、私にとって1番幸せだった。
それから4年がたってもずっと、その先生の事が、忘れられない。

【あの人99】S・Sさん

中学時代のクラブの大先輩である。
その先輩とはいくつ離れているのか分からないけれど、自分が中学に入学し卓球部に入った時にはすでに卒業してた。
友達の2つ上のお兄さん(T・Sさん)もクラブの先輩であったが、T・Sさんよりもさらに年上であった。
当時の卓球部は上下関係が厳しく、いまだに先輩の前に出ると姿勢を正し緊張してしまう。
そういう訳なので、中学の時にS・Sさんが指導に来た時には、声も出せないぐらいに緊張してしまった事を覚えている。
あれから40年も経ってしまったが、懐かしくなって市内に卓球がやれるサークルは無いかとWebページを探した。
その時にあるサークルの代表者としてS・Sさんの名前があったので、とてもビックリしてる。
高校を卒業した後に、地元の銀行に就職したことは知っていたが、今は卓球のサークルを運営しているとは知らなかった。
思わず懐かしい名前に見入ってしまったが、先輩からは自分の事は知らないであろう。
いつかラケットを持ってサークルを訪れたいものであるが・・・。

【あの人98】T・K君

高校時代、一緒に遊ぶのは他の高校の生徒が多かった。
バンドメンバーの友達に結構知り合いが多くなった。
それに高校ではどちらかというと、あぶれものみたいな存在だった。
T・K君、彼もバンドメンバーの友達。
中学も違っていたから、自宅からは結構離れていた。
けれどチャリで良く麻雀をしに行った。
彼の家と言えば麻雀だった。(笑)
ちょい悪な感じだったけど、不良という範囲ではなかった。
少し髪にパーマをかけて、学生ズボンが太かった程度。
喧嘩をして回っているという話は聞いたことが無かった。
変なあだ名だったが、どうしてそのあだ名になったのか、それは今でも謎だけど。
お母さんは小さな美容室をやっていたけれど、お父さんがいたかどうかは分からない。
さすがに今では、そのお母さんの美容師も無くなっているだろう。
あれから何十年も経ってしまった。
高校を卒業した後はどうしたのか、バンドメンバーからも聞いたことが無いけれど、きっと今ではいい親父になっているだろう。
地元に帰ってきているという話しは聞かないけれど、どこで暮らしているんだろう。

【あの人97】Yさん

中学の1つ後輩だった。
高校も同じだったかも知れない。
隣の民区(地区)に住んでいたのだけれど、家は比較的近かった。
彼女の名前の方は、おそらく知らなかったと思う。
苗字は漢字の読みが分からなかったので、漢字辞典で調べた。
一関でもあまり無い苗字ではないかなぁ。
高校の同級生が彼女と付き合うとか、そんなことを言っていたのでちょっと気になっていた。
多分自分とは話もしたことが無いだろうなぁ。
あまりはしゃいでにぎやかという印象は無かった。
どちらかと言うと控えめな感じだったなぁ。
でも、暗いと言う印象は無かった。
同級生との間も、その後はどうなったかは知らない。
彼女自身のその後の進路も、知る由もなかったが、家の前を通るたびにどうしてるんだろうと、かなりの年数を経っても気になっている。

【あの人96】Y・A君

最近会ったのは、もう何年も前で、彼のお父さんのお通夜の席だった。
それから何年かして、本人も体調を崩して大変だという話を友達から聞いた。
結構悪いらしいがそれでも会社には通勤しているという。
彼に初めて会ったのは高校生になった時だったろうか。
妙に体がガッチリしていたような記憶がある。
高校時代はそれほど親しいわけではなかったが、会えばお互いにバカな話をしていたんじゃないかなぁ。
距離が縮まったのはお互いにバイクの免許を取ったころじゃなかったかな。
彼のバイクはスズキのガンマ400、そうスクウェア4だったな。
それにレースを見るのが好きで、鈴鹿の8時間耐久の中継を一緒に見た記憶もある。
そういえば、NTT株で一儲けして、車を新しくしたなんて話をしたのもずいぶんと昔になってしまったな。(笑)
体調を崩す前には、後輩がやっていたバーで偶然に会ったこともあった。
あれも数年振りという、お互いに不義理な対面であったが。(笑)
早く体調を治して、またバーのカウンターで一杯やりながら、バイクの話しでもしたいものだなぁ。

【あの人95】Nさん

少し前、と言っても4年前になるかぁ。
銀行で彼女を見かけた。
中学校の後輩である。
一つ下だったはずである。
何年ぶりに見かけただろうか。
同じ一関に住んでいながら、全然見かけることが無かった。
確かバレー部だったような気がする。
身長はあまり大きくなかったけど、バレー部に入ったんだと思ったことがあった。
実際はどうだったか分からないけれど。
まるっきり40年ぶりだったので、声を掛けるのをためらった。
同級生なら何とか話もできそうだけど、後輩となるとそうもいかない。
変な遠慮かな?
どこかの事務員さんをやっているようだった。
銀行に現金を預けに来たとこか、そういう感じだった。
彼女とは中学の時になぜか仲良くなって、自分の友達・・というかクラスに頻繁に遊びに来ていた。
誰かが目当てだったのかも知れないし、単に面白かったからなのかも知れない。
高校は自分とは違うところへ行ったから、中学卒業以来話をすることはなかったなぁ。
結婚はしたのだろうか。
楽しい家庭を作ったのだろうか。
中学の時は笑い声が隣のクラスまで聞こえるようだった彼女。
でも、今は元気そうに働いているみたいだな。

【あの人94】I君

彼は自分がいつも行っていた喫茶店に来る常連のお客さんだった。
中学、高校を旧花泉町で通っていた。
知り合ったころはお互いに高校は卒業していた年であった。
ちょっと怖そうな感じではあったが、話しをすると同級生だと分かった。
自分よりも、弟との方が仲が良かったかも。
当時は近くのデパートで働いていたから、お昼の休憩時間には上司や同僚と来ることが多かった。
二十歳を過ぎたある春の日に彼から「アパートを借りるから付き合って欲しい」と言われた。
門構えの立派な家の農家が大家さんで、近くの何棟かのアパートを経営していた。
部屋を見せられたことは覚えているが、どんな部屋だったかは覚えていない。
そこに住んでいる時にも行ったことは無かった。
職場で何があったのかは分からないけど、転職をするということになった。
話しを聞くと、プラスチックのパーツにロゴなどを印刷する会社だということだった。
担当は印刷の手前の製版だったので、当時の自分と同じ職種なんだなぁと思った。
その後、彼は独立してその職場から仕事をもらって商売をしていたようである。
それがどのぐらい続いたか分からないけど、次は自分のあだ名を店名にしたスナックを開いた。
もちろん自分の店ではなく雇われマスターと言う形でである。
その当時は、ある程度羽振りが良かったのか、オールディーズに出てくるようなアメ車に乗っていた。
一度だけ、いつも行く喫茶店のマスターと飲みに行ったことがあるが、店の中までは覚えていないし、ましてや可愛い女の子達がいたかどうかも覚えているはずがない。
その後どうなったのか、喫茶店には来ることも無くなり、彼の噂も聞かなくなった。
彼が任された店も無くなってしまっていたので、そのころには一関からいなくなってしまったのかも知れない。
ちょっといい男だったから、彼に惚れた女も一杯いたんじゃないかなぁと今になって思う。
今はどこでどうしてるかなぁ。

【あの人93】・・・さん

自分の祖父と付き合いのあった人である。
全然関係は無いのだけれど、元同僚の通夜に行った時に、「爺さんの通夜に来てくれたっけなぁ」と突然思い出したのである。
その時のことを、何か会話を覚えているわけでもないのだけれど、フッと思い出した。
その人は片腕が無かったから、大分不自由な暮らしをしていたと思う。
だから特に記憶に残っているのだろうけど、名前は覚えていない。当時からあだ名で呼ばれていたような気がする。
20年も前の祖父の通夜に、生前に親交のあった、懐かしい顔の人達が大勢来てくれていた。
その中の一人に彼もいた。
その時は、失礼ながらあまり裕福ではないだろうと想像させる服装だった。
それも致し方のないことだっただろう。
その通夜の時には、すっかりお年寄りになっていたから、ひょっとしたらもう亡くなってしまっているかも知れない。
祖父が小さな事業を手掛けていたころに、仕事を手伝ってくれていたと聞いた。
自分が物心ついた時には、もう祖父は事業から手を引いていたので、その当時の事は良くわからない。
けれど、その当時の人の何人かは、良く家に出入りしていたから、自分にとっては顔見知り以上の人達である。自分が大人になってから一度だけ、その人を見かけたことがある。
まだ祖父が存命の時だった。
売って収入を得るためだろうか、段ボールを回収しリアカーに積み込んでいた。
今でいう紙の資源回収である。
自分の子供の頃の記憶の彼よりは、年は取っていたけれど、相変わらず頑張っていた。

【あの人92】T・S君

高校3年の時に参加したバンドのドラムスである。
彼は一関高専の3年生であった。
当時、自分は見たことが無いロートタムという音程をあっさり変えられるタムを持っていた。
プレイしながら音程を変えていたかどうかは知らないが、面白いものを持っているなぁと思った。
何しろ豪快な感じである。
高校を卒業して杉並の同級生のアパートに遊びに来た時に、一緒にそこで飯を食った。
その食いっぷりを見て格好いいなぁと思った。(笑)
波乗りもやっていたはずだが、自分は一度か二度一緒に入ったことがあるだけだった。
その後、彼にあったのは一関の居酒屋でである。
同級生に彼が来ているからと誘われた。
やはり飲みっぷりも豪快である。(笑)
彼は現在、岩手県内のソフトウエア会社に勤めているが、そろそろいいポジションになっているのだと思う。
同級生の所へは、時々連絡が来るようなので、またその内に一緒に飲みたいものだ。
あぁっ、高校時代のドラムはどうだったか。
スナップの効いたスネアを叩くので、自分は非常にベースが弾きやすかった。
リズムも比較的安定していたのだろう。
社会人になっても、ドラムを叩いていたかどうかは不明であるが、今度会った時に確かめてみよう。

【あの人91】W君

水沢から波乗りに来ていた彼。
波乗りのポイントを小泉海岸から、通称「うに浜」~「玉石」あたりに移した年に知り合った。
年齢的にも近かったかも知れない。確かめたことは無かったけど、自分と同級生だと思っていた。
そして、波乗りの腕も自分とあまり変わらなかったように思う。
いや、少し彼の方が上手かったかも知れない。
海の上では波を取ったり取られたり、譲ったり譲られたりしながら乗っていた。
陸に上がれば、何が面白いのかバカな話ばかりしていたような気がする。
彼は競技系のスキーをしていた先輩と一緒に来ていた。水沢から来ていたのは、彼とその先輩の他に誰がいたのかは覚えていない。もっといたようにも思う。
水沢だとどこを通った来たら近いのか分からないけど、一関から向かうよりも若干遠くて時間が掛かっていたんじゃないかな。
ある日突然、家業が忙しくなるから海へは来られなくなりそうだと言っていたことがあったが、それ以来彼をそのポイントで見かけることが無くなった。また、他のポイントへ遠征しても彼の姿は見えなかった。
確か文房具屋だと聞いていたが、それも定かではないしどこにあるのかも分からない。
自分とよく一緒に行っていた友達さえも、その文房具屋に付いては知らないようだった。
一体彼はどうしたんだろう。
元気にやっているのだろうか。

【あの人90】・・・

高校1年の時に同じクラスになった彼。
もう名前も忘れてしまったが、気になることがあって忘れられない。
少し変な人間が割と多く集まる高校だったので、それほど気にもしていなかったし、自分も普通だとは思っていなかった。
後から他の同級生から聞いた話しによると、1年落第して同級生になったらしい。
入学したての頃、多分席が近かったんだと思うが、割と話しをするようになった。
当時、自分は国鉄の時刻表で架空の旅をすることが楽しかった。(もうその辺から普通ではないような気がする)
当時は青森と函館の間にはトンネルが存在せず、青函連絡船でつながっていた。船の旅自体は4時間だったが、上手く乗り換えができなければどちらかの駅で相当な時間を待たされることになった。
そんなことが楽しくて、北海道方面への旅を企てた。
そんな話しをチラッと彼にしたんだろう。こちらが一言いうと、向こうからは五つの事が帰ってきた。
それで、鉄道の話しをしようと言うことになって、自分の家に押しかけてきた。ひょっとしたら招いたのかも知れないが。
わざわざ同級生の家まで来てする話しなので、さすがに彼は鉄道に関して詳しかった。
今でいう鉄っちゃんだったのだろう。列車名とか形式とか、そういうことがことさら詳しかったのを覚えている。
夏休みを過ぎたころだったろうか、彼は自然と学校に来なくなっていて、いつの間にか長期休暇に入った。
自分が2年生になった時には、もう一度(二度目か)1年生からやり直すことになっていた。
その後、彼がどうなったのかはよく知らないのだが、退学をしたというようなことを聞いた。
そんなこともすっかり忘れたしまっていた20歳を少し過ぎたの頃、自分はすでに就職していて、仙台と地元との間を時々東北本線の普通列車を利用していた。
ある日、自分の座っていた座席の向かい側に、見覚えのある彼が座っていた。
誰か知り合いと話しをしていたようであったが、目が合った時に「よおぅ」と手を挙げて挨拶をした。
けれども、その挨拶を目にしていながら、あからさまにシカトされた。
まぁ、そんなやつだよなぁと思いながら、高校1年の時の鉄道の話しを思い出した。
今の彼はどうなっているだろう。
当たり前だが、いいおっさんの年になっているはずである。
が、いいおっさんになっているかどうかは不明である。

【あの人89】H・H君

彼は今の会社の同僚だった。
セクションは違ったが、同じ流れの現場だったのでよく顔を合わせていた。
もちろん話しをしたこともあるし飲みに行ったこともある。
自分は社会人になってからバイクの免許を取ったのだけど、彼は高校の頃からバイクに乗っていた。
後に彼と先輩で同僚の人と3人で良く一泊二日のツーリングに出かけるようになるのだが、恐ろしく速いやつだった。スピードに対しての感覚が普通の人とは違っていたのだろう。そして、運動神経も人一倍発達していたのではないだろうか。
折からのスキーブームということで、会社の中でもスキーを始める人が多くなってきた。
彼も周りにつられてスキーをすることになったのだが、一緒に滑ってビックリである。
初心者なのだからもちろん技術的なことは拙かったが、スピードが出た後のスキーの扱いは、どう見ても初心者とは思えないような滑りだった。
スキーは乱暴に行ってしまえば重心移動だけで曲がることができる。横Gへの対応と重心移動で大きな回転をすることができる。これはバイクの運転にも通じることで、彼はこの運動を誰に教えられるともなく、何度かのゲレンデの滑走で習得してしまったのである。ターンしている時の体の軸が理想的な位置と角度を保たせることができていた。
もちろん細かなターンやコブの扱いは無理だったが、コブから弾かれた時の体の持って行き方などはバイクのモトクロスそのものであった。だから体を空中でも安定させられ、着地した後も乱れることなく滑走できるようだった。
彼は周囲の人達と温泉+宴会に釣られてスキーツアーに参加したのであったが、もしあのままスキーを続けていたならば、ずいぶんと上手くなっていただろうなぁと思う。
ちなみに彼はMFJ(Motorcycle Federation of Japan)のライセンスを持っており、モトクロスで大会にも出場していたのである。

【あの人88】Y君

専門学校の同級生で、入学して初めて友達になった。
初めての登校日に、自分が4人用の長机に一人で座っていると彼が声を掛けてくれた。
その後に何人かで一つのグループになって、馴染みのない東京での学生生活がスタートした。
彼は新潟出身で、臨床検査技師の専門学校をやめて入ってきたと言っていた。
当時、彼が住んでいたのは京成金町のアパートだったな。
飲んでからアパートへ行ったのか、行ってから飲んだのか覚えていないけれど、初めて行った場所で、帰りはよく駅までたどり着けたもんだと思ってしまう。
高校時代だったかそれ以前だったか、何か病気をして手術をしたことがあったと、手術跡を見せてくれた。
自分も手術跡は3か所もあるので、ちょっとした自慢ごっこになった。(笑)
1年の夏休みが終わったころに、自分は何となく他のグループの連中と麻雀をやるようになると、彼らとの距離が少しずつできてしまった。
もちろんケンカをしたわけではないから、会えば話しもしたし昼飯も一緒に食べた。
彼はちゃんと卒業することができたのか、あまり学校では見掛けなくなっていた。
もうあれから大分時間がたってしまっているから、どこかでちゃんと生きているのだろうけど、ずっと気になっている。

【あの人87】K・K君

今はどこにいるのかなぁ。
友達と水沢に引っ越していた彼の実家へ遊びに行った20代前半以来あっていないからなぁ。
前は転勤で岩手県内を回っているというような事を聞いたことがあった。
彼も転校生で、小学5年ぐらいの時に山目小学校へ来たんじゃなかったかなぁ。
6年生の時にバク中をやって頭を怪我したことがは、懐かしいご愛嬌。
でも、怪我の場所が場所だけに危なかったなぁ。
それでなくても何となく豪快なところがあって、車を買ったばかりで大破させてしまったりという話しも聞いたことがあった。
彼からは一度スキー板を借りたことがあった。あれは高校生の時だったかもしれない。
う~ん、よく覚えていないんだけど蔵王へ友達といった時だったかな。
板はブリザードで、それまで自分が乗っていた安いセットの板ではなかったから、かなり乗り具合というか、曲がり具合がが良かったなぁと思った。
高校はどこだったか覚えていないけれど、就職は某通信会社(・・・その当時は電話会社か)だったはず。その時には実家は水沢にあって、友達と一度遊びに行ったことがあった。
彼を思い出すと、なぜかイタリヤのスキーヤーでアルベルト・トンバをセットで思い出す。
彼が冗談で「アルベルト・トンマ」と言ったのを覚えているからだ。(笑)

【あの人86】K・Cさん

少し前に、自分のデスクの目の前の女性が「今日、K・Cさんに会いましたよ。元気そうでした。」と話してくれた。
懐かしいなぁと思うと同時に元気そうで良かったと思った。
今の会社に入ったときには、もうすでにデザイン部門のチーフだった。
デザイン部門といってもデザイナーさんではなく版下を作成する達人であった。
まだ業務にMac入ってくる以前の話しだ。
文字も写植機で古い人は活字を拾っていたりしていた。
そんな時代を生き抜いてきた人である。
いつも回りの皆を笑わせ、豪快に生きて人である。
時代は手作業からMacに変わると同じ頃、彼も別のセクションに移った。
そこで相変わらず皆を笑わせながら仕事をしていたのであるが、あるに事故が起きた。
詳しいことは分からないけれど、作業中にトラックの荷台から落ちてしまった。
しかも頭を床に打っているという。
しばらく入院したのだが、残念ながら後遺症が残ってしまい、完全に元には戻らず職場復帰はならなかった。
定年が近いと言うこともあったのだろう、自己退職であった。
その後、おそらくリハビリを頑張り、後遺症と闘ったことだろう。何年かして、突然彼から在職時代の礼状が届いた。
確かに往年の彼の筆跡とはだいぶ変わってしまっていたが、それでもちゃんと読むことが出来るほど立派な字だった。
それからずっと彼のその後の話しは聞くことがなかったが、元気そうな彼に会ったという話しを聞いて嬉しくなった。

【あの人85】S・Cさん

3つ年下だったかな。
いつも行く喫茶店の常連になっていた女の子。
とはいっても最初に出会ったのは彼女が高校生の時だった。
自分が高校を卒業して蕨に住み始めたころに、自分も高校時代から通いつめた喫茶店に入り浸っていたらしい。
確か、自分が夏休みになって初めて帰省した時だったかなぁ、彼女の同級生とかその彼氏とか、そういう一団を引き連れて常連になっていた。
中心メンバーは彼女と、もう一人の女の子。高校は違っていたけれども、やはり中学の同級生だった。
その喫茶店のマスターや他の常連、自分の同級生たちと、いつもわいわいがやがや遊んでいた。
堤防でローラースケートやフリスビーをしたり、夏は海に遊びに行ったり、大晦日は初詣に行ったり。
いつも行きつけの喫茶店で騒いでいたので、時々二階の誰も来ない、後に座席に替わってしまうところへ押しやられていた。
休みの日は、高校生なので当然お金は無いから、コーヒー一杯で一日中遊んでいた。
自分の友達、同級生、先輩、あるいはあまり知らない他のお客さんから、みんなの妹的な存在だったのだろう。
そんな彼女もいつの間にか高校を卒業する年になり、仙台へと引っ越した。
仙台では仕事が忙しかったりで、会う機会はあまり無かった。
最初の就職先を辞め、2つ目の就職先はアパレル関係、当時はハウスマヌカンっていう言葉が流行っていた。
その後、東京のショップに移ったと聞いたけれど、それ以来彼女には会っていない。
自由奔放で天真爛漫な笑顔を振りまいていたけれど、でもどこかナイーブな心を持っていた彼女だけれど、今は何処でどう暮らしているのかは分からない。
ショップオーナーになって一財産築いているとか、あるは大学受験を向かえる子供を抱えるお母さんになっているとか、彼女のその後を想像している。

【あの人84】H・A君

彼とは中学の同級生だったが、中学を卒業して以来会ったことが無かった。
久しぶりに会ったのは、自分がまだ波乗りを始めたばかりの、夏の小泉海岸だった。
自分とは違う小学校からから山目中学校へ入学した彼とは、3年間で一度もクラスが一緒になったことは無かった。
もちろん顔も知っていたし名前だって知っていた。
けれども中学時代には話しをしたことが無かった。
高校もどへ進学したのかも知らなかったが、ちゃんとした社会人になっていた。
まさか海の上で波乗りをしながら彼らに会うとも思っていなかったが、自分自身も波に乗るなんてことは、中学時代にはとても考えられることではなかった。
遠い太平洋に台風が来ていたのかも知れないある日、結構大きなうねりが来ていた。
当時は小泉海岸の沖に、テトラポットが山積みにされていたが、その日は、そのテトラポットさえも越えてくるような大きなうねりだった。
それでも怖いとも思わずに、海の上にいた連中と奇声を上げながら、全然乗れないサーフボードにつかまっていた。
自分は小泉海岸で波乗りをしたのはその年だけだったので、その夏以来彼には会っていない。
何年か前に同窓会があったけれども、その席には彼は来ていないようだった。
もう波乗りはやっていないかも知れないけれど、どこかで元気に暮らしていることだろう。

【あの人83】H・Kさん

やっと名前を思い出した。
H・Kさん。
と言っても、あまり自信は無いのだけれど。
中学1年だったかの時にどこからか転校してきた女の子であるが、みんなから名前では呼ばれていなかった。
当時の一関市内にあった私立高校の名前で呼ばれていた。
転校元の中学校の制服でしばらく通学していたのだけれど、その制服が私立高校の制服にそっくりだったからである。
今は全然違う制服になってしまったが、やはり昔のままのほうがよかったかなぁ。
で、彼女と自分の接点はほとんど無い。
けれど、元気な女の子だったので自分も知らないわけではない。
クラスは一緒になったことが無かったけれど、話しは何度かしたことがある。
接点・・彼女、卓球部に入ったんだ。
自分も卓球部だったので、離れた場所で練習している女子の中にいたのを見た記憶がある。
それはあまりよい記憶ではなくて、あまり卓球が上手くないという悪い記憶だけれど。
その位しか情報がないので、彼女が卒業してどこの高校へ行ったのかも知らない。
また、話題に上ったのも聞いたことがない。
今はどこで暮らしているのか、どこへ行ったのかさえも知らないのである。
あの中学の時のように元気で暮らしていてくれれば良いのだけれど。

【あの人82】F君

その昔、一関の街中に感じの良い喫茶店があった。
マスターは若くて、自分とあまり変らない年齢である。
そのマスターは、それ以前に別の場所にあるビルの2Fのスナックのアルバイトをしていたことがあった。
自分がまだ仙台で働いていて、友達が東京から地元に戻ってきたいて良く夜中まで飲んだ店である。
良くボブ・マーリィのライブビデオが流されていた。
その店を辞めた後に自分で店を開いた。
テーブルが2セットとカウンターが5席のこじんまりとした小さな店だった。
いつ行ってもお客がいないと言うことは無く、繁盛している店だった。
自分が今の会社に就職したての頃に、上司や先輩と良く喫茶店でコーヒーを飲んだのだったが、その上司もその店がお気に入りだった。
ある時、その上司から営業に来ないかという打診を受けたのだったが、笑ってやんわりと断った。
また、ある時は、その上司が仙台の工場立ち上げメンバーに加わったが、仙台へも誘われた。
もちろん、その時も笑って辞退した。
それから程なくして、一関の喫茶店事情が変化した。
ゆっくりコーヒーを飲める喫茶店が、軒並み店を閉じ始めたのである。
時代の流れだったのか、その彼の店も閉めざるを得なかった。
その後、何度か市内の結婚式場やホテルで会うことがあった。
やっぱりその道で働いているという。
最近は自分のほうがそういう場所とは縁がなくなってしまったので、その彼とも会うことがなくなってしまった。
最後にあった時から、もう何年経ったのだろう。
今でも元気で働いているのだろうか。

【あの人81】K・K君

中学の2、3年に同じクラスだった。
小学校は学区が違ったので、中学に入るまでは顔さえも知らなかった。
それにしても格好いいやつだったなぁ。
多分、大モテだったんじゃないかなぁ。
ちょうど赤荻学区と山目学区の境目あたりに家があって、一度遊びに行った事があったなぁ。
彼はバスケット部だったので、当然足も速かった。1年のときから3年生まで、何故か運動会の100m徒競争では同じグループに入っていた。
1、2年の時は、あと一歩。いや、あと半歩の差でそのグループで1位になることができなかった。彼が練習を含めて、いつも先頭を走っていたからだ。
でも、3年の運動会本番で、何故か彼は自分の足に引っ掛かった。その時、自分の後ろを走っていたのだった。
そして、そのままゴール。
やっとのことでそれまでの雪辱を果たすことができた。
彼に100m徒競争で勝ったのは、それ1度切である。

中学卒業後は、工業高校に進学したはずだけど、その後どうしているのか分からない。
小さく集まった同窓会みたいな飲み会の時に、それとなく聞いてみたのだけれど、やっぱり消息は分かっていない。

どうしているのかなぁ。

【あの人80】Eさん

苗字は覚えているけれど、残念ながら名前の方は忘れてしまった。
自分が仙台の西多賀病院に入院したときに6下病棟に勤めていた看護婦さんである。
その病棟には何人の看護婦さんがいたのだろう。覚えているだけでもI婦長、Yさん、Sさん、Sさん、名前は思い出さないけれど、もう二人と、そしてEさん。でも50人以上の子供たちがいたはずだから、夜勤も含めて5人ぐらいの看護婦さんではシフトは回せないだろうなぁ。
で、Eさん。
歩く姿が何となくアニメっぽかったな。
そして、どこか人生を捨てたような眼差しに時々なっているように、小学生の自分には映っていた。本当のところはどうなんだろう。
自分の病室担当では無かったので、あまり話しをした覚えが無いけれど、同じ病棟内なので冗談ぐらいは交わして親しくもしていただろう。
当時は多分20代前半だったはず、メンバーの中では一番の若手だったなぁ。
あまり長くない髪を後ろでしばって、頭の上にはナースキャップが乗っかっていた。どこか可愛い看護婦さんだったな。
残念だったけど、秋ごろだったか、別の病棟へ異動になってしまった。
それ以来、自分が12月に退院するまで会ったことが無かった。
今も元気に暮らしているだろうか。

【あの人79】Gパンセンター"M"

自分と同じぐらいの年代で市内在住だった人は"M"を覚えている人も多いかも知れない。
自分が中学から高校生時代ぐらいまでの間にGパンを買いに行ったショップで、店舗は当時、駅から上ノ橋通りに500mぐらいの所にあった。
そこで働いていた、今で言うショップ店員と店長さんの3人である。
もちろん何人かの店員さんは他にもいたのだろうけど、彼ら3人が特に印象深かった。けれども名前は知らない。
店舗自体はそれほど広くなく、間口から奥のミシン作業台までの細長いショップだった。
元々は沿岸の気仙沼の人で本店はやはり気仙沼にあるという話しだった。
店長、格好良かったなぁ。ちょっと不良っぽく頭は軽くリーゼント、ちょうどキャロルの矢沢から毒を抜いた感じと言ったら良いのだろうか。
もちろんそれほど深い付き合いでは無かったが、たまにGパンを見るついでに遊びに行くと、楽しい話しをしてくれた。
女性店員A、後に店長と結婚したという話しだったが、果たしてどうだったか。
店長の硬派に比べると、長い髪に軽くパーマが掛かっていて、ゆるふわな感じの女性でとてもきれいだった。
もちろん自分は大ファンである。
女性店員B、ショートカットにスリムなGパンをはいていた。なぜか今でもハッキリと顔も覚えている。
ほとんど話しはしたことが無かったなぁ。
当時の自分たちのトレンドは、このショップで買い物をした時に買った品物を入れてくれる、長方形で抱えて歩くと丁度良い紙袋を持って歩くことであった。今の女性が有名ショップの手提げ袋を持って歩くように・・・。その後、その店舗の他にも市内に別の店を構えていたり、駅前の方に移転したりと変遷があり、残念ながら店は閉じてしまった。
今ではその3人も、結構な年齢になっているだろう。幸せに笑って暮らせてれば良いのだが。

【あの人78】A先生

中学2年だったか3年のときに教育実習生としてきた女性の先生。
大学生なので、もちろん先生のはずはないのだけれど、普通は先生って呼ぶよね。(笑)

自己紹介のときに名前を「明けて三日だから、○○○と名付けられました。」と言っていたけれど、へぇ、そうなんだぁと感心して聞いていたけれど、あれはつかみだったのかも知れないね。
とても可愛い女性だったので、男子生徒からは絶大な人気。
それに女子生徒からもすごく人気があった。

で、教育実習生は毎年来ていたので、ひょっとしたら3年間に出会った先生と記憶がごっちゃになってしまって、物語になっているかもしれない。
知っている人がいたら教えて欲しい。(汗)

教育実習のことは全然覚えていなくて、覚えているのは下宿していたところへ友達と遊びに行ったということと、大学の学園祭に行って会えずじまいだったということ。
下宿の部屋にハムスターを飼っていたような気がするんだけど、そうすると現実と矛盾するかなぁ。
大学は仙台、大体は出身校へ教育実習に行くはずだから、うちの学校へ来たのはおかしくない。
下宿というのが引っかかるが、ひょっとして一家は引っ越してしまっていて、教育実習の間だけ間借りしたとか、下宿ではなく実家だったとか。
その辺は良く覚えていない。

大学は仙台の「宮城学院」だったと記憶している。
学祭には友達4人ぐらいで出かけた。
今考えればWデートだったかも。(笑)
でも、事前に待ち合わせをしておくなんていう考えはなくて、行ってみれば会えるかもぐらいに考えていたのが間違いだった。
中学の文化祭とは大違いで、人が多いから当然会える確立も低くなるという。

結局、学校の先生にはなったのかな。
教職志望だと勝手に思っていたのだけれど、違う場合もあるよね。
元気で暮らしていればいいなぁ。

【あの人77】Sさん

かつてはうちの会社、とりわけ今の部署で良く取り引きがあった会社の営業担当者である。
昔から通信業界では歴史の古い会社だと思うが、今の部署の基幹業務メーカーとしてはそれほど古くもなく、シェアもそれほど多くはないかもしれない。
うちの部署としてはずいぶんとお世話になった人物であるが、定年を前に退社し自分で会社を起こした。
東北地方の代理店という形で、依然と変わらずにうちにも出入りをしてくれた。
そして、東日本大震災である。
彼の家は宮城県の野蒜という所にあった。
ニュースや新聞では列車を陸の上に停車させて乗客の命を津波から救ったという話しが報じられたあたりでる。
彼の家の場所は知らないのであるが、高い場所に建っていなければ津波に襲われてしまっただろうと想像ができた。
震災後にメーカーの人から聞いた話しでは、どうやら地震の後に逃げて無事だったという。
その話しを聞いてホッとした。
仕事上の関係ではあるが、少なからず繋がりがあり、何度か酒も一緒に飲んだ人であるから。
年齢的には厳しいのかも知れないが、生きていればこそ良いこともあるだろうと、元気に暮らしていることを願っている。

【あの人76】Aさん

アルジェリアでプラント関係の会社で「日揮」の作業員がテロ組織に拘束されたというニュースが飛び込んできた。
久しぶりに日揮という会社の名前を聞いて、一番初めに就職した会社の社員Aさんを思い出した。
その会社はサイトにも時々出てくるが、仙台にあった非破壊検査の会社である。
彼はその会社から日揮に長期出向していて、自分たちが入社した時は北海道室蘭の石油コンビナートに検査員として働いていた。
そう言う訳で、自分がその会社に在籍した2年の間に、顔を合わせてのはほんの2、3回しかない。その幻の社員Aについては、仙台に残っていた他の先輩から「これこれこういうAという奴がいる」という話しは聞いていた。
初めて顔を合わせたのは、日揮がお盆休みに入り仙台に帰ってきた時だった。
改めて初めましてというような会を開いて飲みに行ったのだった。
どこで飲んだのかは覚えていないのだけれど、最終的には彼のアパートの部屋で飲んだという事は覚えている。
案外自分の住んでいた所に近いところにアパートを借りていたのだった。
結構きつそうな度のメガネをかけ、髪を七三に分けて、典型的なサラリーマンという風貌だった。そして一緒に数日間仕事をしたのだが、その風貌に違わずまじめな仕事ぶりであった。
あまり話しをする機会もないので、どこの出身とかプライベートな事は分からないが、アパートで飲んだ時に妹が居ると言うことを話していたのを覚えている。
今も日揮で働いているとは思えないが、彼に限っては人生の道を外すような事は無いだろう。
きっとどこかで元気に検査業務をしているかもしれない。
いや、別の業種へ転職しても、きっと上手くやっていることだろう。

【あの人75】・・・

高校の時にちょっと加わった吹奏楽部の1つ先輩の女性である。
担当はパーカッション、残念ながら名前は覚えていない。
自分はたった3カ月ぐらいしか在籍しなかったが、それでも面白い思い出は作ることができた。
当時パーカションは2人いたように思う。
吹奏楽でパーカッションを担当しているぐらいなので、当然リズム感には優れていた。
自分のようなにわか仕立てのホルン吹きとは大違いである。
話しをする機会は一度も無いままに、自分は退部してしまたのだが、その先輩が高校に在籍している間に2度同じステージに立ったことがある。
1度目は吹奏楽コンクールの県大会で、岩手県民会館の大ホール。
そしてもう1度は体育祭の後夜祭である。
一関に何年か前にライブハウスが存在したことがある。
そこへベースを弾きに来ていた人、どこかで見たことがあると思っていた。
ある時、その彼の同級生でギターを弾く友達が来たことがあった。
その友達の顔を見た瞬間に、高校のときの体育祭後夜祭を思い出して、ベーシストの方も合点がいったのである。
体育祭後夜祭の時の彼らのバンド、ドラムが上手かった。ギターはうちのバンドの方が上手かったけれど、聴いていると気持ちの良いドラミングであった。
正確なハイハットの刻みと切れのあるスネア。
なんて上手いんだろうと思っていたのである。
その彼女、今はどうなっているかも分からない。
どこかで可愛いおばあちゃんになっている頃だろうか。
彼女のことを聞いてみれば良かったなぁ。

【あの人74】M・S君

面白い奴だったなぁ。
中学、高校の同級生である。
中学の時、東京の方から転向してきたんだったかな。
細身で背が高かった。
生徒会で役員を一緒にやったことがあったような気がするなぁ。中学の時。
今自分が住んでいる近くに、彼の親戚の家があり、そこに住んでいたんじゃなかったかな。
一度だけ部屋に遊びに行った記憶があるが、ウクレレを上手く弾いていた。
後から知ったけど、彼はドラムもやっていて、中学か高校の時の文化祭でライブに出たことがあったんじゃないかなぁ。
とにかく話しが面白かった。よくありがちな気取ったところは全然無くて、それでもどこか都会風の感じだったな。
面白いって、中学の文化祭の時に、飛び入りでステージに立ち、ひょっこりひょうたん島のテーマ曲に合わせて一人で踊っていた。
会場はドッカンドッカンの大受けである。
アレはあの時のアドリブだったのか、どこかでやったったことがあったのか・・。
高校を卒業して離ればなれになったけれど、一度だけ同窓会で会ったことがある。
中学だったか高校の方だったか。
その時は仙台に住んでると言っていたが、今は転勤して他の土地で暮らしているかも知れないな。
でも、彼のことだから回りの笑わせながら、元気に暮らしているんだろうなぁ。

【あの人73】T君

自分が最初に就職した仙台の検査会社の同僚である。
修だったか修一だったか、名前の方は覚えていない。
自分が就職した年は工業系高校から3人が就職してきた。彼はその中の一人で、他の2人もそうだったが、ちょっと小じゃれたリーゼントだったが、目が可愛かった。(笑)
仙台が今のように大きな街になる前に、ちょうど仙台を挟んで宮城郡というのがあった。その中にある愛子(あやし)という所から通勤していた。
当時の自分からすれば、ずいぶんと遠いところから車で来るのだなぁと思っていたけれど、案外普通のことなのである。
彼ら3人は入社して1ヶ月で、青森県の六ヶ所村の現場へ数ヶ月の出張に入った。確か4月から9月ぐらいまでだったと思う。結構残業もあって体力的にも大変な現場だったが、お金を使うことが無いような所なので、お金が貯まって仕方ないと言っていた。事実、彼が出張から復帰してすぐにしたことは中古ではあるが、車を買ってアルミホイルを履かせ、オーディオをグレードアップした事だった。
自分が辞める前だったから、その後だったか、彼もその会社を辞めている。
理由はどういう事なのかは分からないけれど、在職中に次は車屋に就職するんだと言っていた。
オートバックスかイエローハットに同級生がいるのだという。
彼も車が好きだったから、まぁそれも一つの生き方かなぁとは思っていた。
ただし、車で攻めている時に、コーナーを抜けた後でシフトダウンをすると言い張っていたけど、それは完全な誤りだぞ。基本的にはコーナー手前でシフトダウンをしてトラクションを掛けながらコーナリングすると言うのが、正しいのだ。(笑)
その後は一度も会ったことが無い。今は何をしているのかなぁ。

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