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【引っ越しという作業:その5。】

5度目の引っ越し・一関市内

つい最近と言っても、すでに3年になろうとしているが、立沢の借家から自宅へと戻ることにした。
親父が亡くなり、お袋が一人暮らしをしていたのだが、寄る年波には勝てず一人で住まわせておくことが危なくなってきた。
子供達は大学院や大学を卒業し、それぞれに職に就いていた。
長男は仙台市にアパートを借りて住んでいる。
一方、長女は地元一関市に就職し借家から通勤していた。
家族3人分と長男の残していった荷物を運ぶ事になっていた。
当然のごとく、また業者さんを頼った。
20230211_moving05_20190602.jpg
いくつかの業者さんに見積りを依頼したところ、パンダマークの引っ越し業者が安かった。
20年以上住んだ立沢の借家20年以上も暮らして居ると、自然と荷物も多くなる。
当日は4tのパネルトラック2台がやって来て荷物を運びこんでいた。
借家を出るに当たっては、かなりの量の不要品が出た。
というより、それを機会に捨ててしまおうという事にしていた。
不要品回収業者さんもたのであり、荷物を運び出した後に引き取ってくれた。
当日以前から少しずつ区分けしていたので、作業は案外簡単だったかも知れないが、普通トラック2台分ということで料金も結構な額になった。
さて、引っ越し先での例のタンスをどうするのだろうと思っていたが、今度は階段を使って運び上げた方が良いという事になり、廊下や階段に傷が付かないような養生をして運んだ。
流石に一人というのは無理だったので二人がかりである。
引っ越しをして3年半になるのだけれども、未だに引っ越しに持つから出していない物が大分ある。
普段の生活には直接関係無いものであるが、やっぱり廃られないもである。
そういう物が段々と溜まっていくのだろう。

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tag : #引っ越しという作業

【引っ越しという作業:その4。】

4度目の引っ越し・一関市内

もうその時は結婚し子供もいた。
事情があって実家を出て借家暮らしをすることにした。
以降、それまで最長の21年を一関市立沢の借家で暮らすことになる。
引っ越しは、本人達で行うなどというのは到底無理だったので、全国組織の引っ越し業者に依頼した。
当日は曇りからポツポツと雨が落ちてくるような、到底引っ越し日和などとは言えない日だった。
それでも大事なく無事に完了したのは、流石にプロの引っ越し屋さんだった。
ただ、当時使っていたPCデスクで右側に引き出しが付いていて足にもなり、左側に太めの金属製足2本で支えるという物だった。
これが、足側の天板に付く所がボルトになっていたのだけれど、机を運び込んで置いたタイミングが悪かったのか、そのボルトに大きな加重が掛かってしまった。
そして、ボルトはグニャリと曲がってしまって、元には戻らなかった。
それ以降、引っ越しをするまで片側には写真雑誌などを積み上げて足の代わりにしていた。
ま、どうって言う事はない。
すごいなと思ったのは、嫁入りタンス3本と少し小さいタンスを運び出す時。
それは2階に置いてあったから、階段を降ろすか屋根から降ろすかで協議した。
自分たちはどちらでも良かったので、業者さんに任せていた。
結果、2階の窓を開け屋根を使い、一度トラックの屋根に載せて下に降ろした方が良いと言うことになった。
かなり重量があったはずであるが、2、3人で難なく事を成し遂げてしまった。
流石にプロである。
午後から始まった引っ越し作業であったが、4tトラック1台でなんとか収まったのかな。
かなり大きなタンスセットも運びこんだけれど、ちゃんと夕方には業者さんも帰って行った。
引っ越し先の借家は新築だったので、気持ち良かったな。
当日の夜は、ほっかほっか亭の唐揚げ弁当を買って食べたのと、その晩の水道の水は新しかったこともあり、かなりカルキ臭かったのを覚えている。

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【引っ越しという作業:その3。】

3度目の引っ越し・仙台市から一関自宅

仙台では2年弱働いて退職した。
仙台に職を求めたかったのだが、不況の時期だったので中々見付からずに一関へ帰る事にした。
ここから数ヶ月のニート生活が始まる分けであるが、その前に引っ越しだ。
学生時代の時より少しだけ荷物が多くなった。
自宅から運び込んでいたベッドや冷蔵庫、洗濯機などの家電、カラーボックスにレコードなど場所を取るような物が増えていた。
この頃にはステレオもあったので、小さいながらにスピーカーや50枚ぐらいになったLPレコードなどもあった。
流石に自家用車で運ぶと言うことは無理だったので、1日だけレンタカーで1.5tの1BOXカーを借りた。
その程度の車は、仕事でほぼ毎日運転していたので大きさの感覚はあったのだ。
何とかギリギリに荷物を積んで、仙台のアパートを後にしたわけだが、当日のことを覚えている。
アパートへの小径に車を入れて朝から1人で荷物を載せていると、2階に住んでいたおばさんから「邪魔なんだけど」というお言葉をいただいた。
このおばさんには、多少の貸しがあったのだが、それはまた後日書くということで。
それと覚えていることをもう1つ。
仙台から一関までは国道4号をひたすら北上した。
出発して2時間ぐらい経っただろうか、宮城県北の築館という所を過ぎたあたりで、小中の同級生でガス屋に勤めていた近所の友達とすれ違った。
彼は自分だと分かっただろうか、後日確認するつもりでいたが、40年も聞き逃している。
レンタカーを当日戻さないといけなかったから、1日で仙台~一関間を往復したことになる。

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【引っ越しという作業:その2。】

2度目の引っ越し・埼玉県蕨市から仙台市

2度目は学生時代が終わって、就職先の宮城県仙台市に引っ越した。
蕨のアパートには、自分の後に弟が入る予定になっていたので、自分の身の回りの物と着替えだけを車に載せて運んだ。
当時の東北道は、まだ川口まで通っておらず、その上あちらの道路も詳しくなかったので国道17号~16号経由で岩槻ICから乗ったのを覚えている。
弟を助手席に乗せ、確か夜中に出発して朝の7時過ぎに目的地の仙台市に着いた。
途中、菅生SA辺りから雪がチラついていたことを覚えている。
仙台の道路事情もほとんど知らないままだったので、仙台南ICで下り国道4号へ出てアパートに向かった。
そろそろ通勤のラッシュ時間が迫っていたので、4号線は結構混んでいたように思う。
アパートには駐車場など無かったので、近くの東北新幹線の下に停めておいた。
後にフェンスが張られガード下へは入れなくなってしまったのだが、自分が仙台にいる時代は停めていても大丈夫だった。
積んできた荷物を降ろすためにアパートへ寄り、その後は一関の自宅に帰ってきたように思う。
本格的な引っ越しは後日、彼女を連れ出して街中で買い物をしたりして整えた。
引っ越し当日は、ご飯を食べる所も分からなかったので、東仙台から街へ向かう途中のラーメン屋で食べた。
道路ギリギリの所に路駐していたことを覚えている。

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【引っ越しという作業:その1。】

1度目の引っ越し・一関市から埼玉県蕨市

良くある高校を卒業しての引っ越しである。
自分は1年浪人をした後、2年間の専門学生時代を経験している。
浪人時代の予備校は神田で、専門学校は鶯谷にあった。
引っ越し先の蕨市のアパートからは、どちらも1時間以内に行ける距離であった。
それに、蕨には友達も引っ越しという事が分かっていたので、それなら自分もそこ住んでみようと言うことになった。
高校の同級生は吉祥寺などに住む連中が多かったので、自分のように埼玉県の、ましてや蕨市にする人間は相当珍しかったかも知れない。
引っ越したのは1979年の3月であったけれど、それ以前の2~3月中旬までは神奈川県の横浜・川崎に居候する形になっていた。
それなので、着替えなどの身の回りの物は、大目のバックパックに詰め込んで先に移動していた。
引っ越し自体にはコタツや布団、その他の着替えなどを一度川崎の親戚宅へ移動させ、川崎では中古の机を調達し、他の元の一緒にトラックで運んでもらった。
覚えているのは引っ越し当日のアパート。
収納や片付けやを終わり関係した人達が帰った後である。
自分は東京都の平井と言う所へ引っ越していた小中高の同級生のアパートへ遊びに行った。
そして自分のアパートへ買って来てみると、玄関のドアの取っ手にお菓子やらちょっとした食料の入ったスーパーのビニール袋がぶら下がっていた。
お世話になった川崎の3つ下の従兄弟とが遊びに来てくれていたのである。
しかしながら自分は遊びに出ていたので、会うことができずじまいであった。
その日からほぼ3年間、仙台へ引っ越すまでの間をその蕨のアパートで過ごすことになった。

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【引っ越しという作業】

フッと思いついたのが自分の「引っ越し」である。
高校を卒業後に何度かの引っ越しを経験しているのだが、案外当日と前後の事は記憶の中から消えない。
そういう思いをちょっと文章に残してみようかなと言う気になった。
もちろん、その記憶は曖昧で不正確な事も多いのだろうが。

自分の引っ越しに付いて書いてみる。
引っ越し自体は7回あるのだが、その内の2回は小学校5年の時、学校併設の病院である仙台市西多賀への入退院のための引っ越しだったので、それは含めない事にする。
住む所を変更した引っ越しとなると5回と言うことになるが、全て住民票も移している。

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【写真を撮る:その4。】

次にNikon F-801というオートフォーカスのカメラに手を出した。
そのカメラを手に入れたことによって、写真を撮るという行為が格段に増えた。
と言っても、飲み会に持ち出しては宴会の様子を撮っていただけだったが。
しかしながら、その当時の仕事で他人が撮った物だが、かなりの枚数の写真を目にすることになる。
それが、その後定年になるまで仕事の一部として続いている。
下手なプロのカメラマンよりも写真を多く目にしていることは確実である。
自分はどんな写真を撮っていたのかというと、まだまだ作品と言えるような写真は無く、カメラを趣味にしている人が撮っているような感じで、風景やら花やら変わった事象やら・・・。
しかしながら、自分の中ではどうも不完全燃焼であり、そんな写真が撮りたいという気持ちでは無かった。
ずっと何を撮りたいのか、何を残したいのかを自問自答してた。
それが、また最初のFE2を手にした時から延々と続いていた。
やっとの事で自分の撮りたい写真が形になったのは、30もずいぶんと過ぎてからの事になる。
自分の作品と言えるような写真を残せるようになってきた。
自分が撮りたい写真を見付けるまで、とても長かったな。

The end.

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【写真を撮る:その3。】

漠然と自分のカメラを買いたいと思った。
新聞の全面広告にキャノンA1だったかの広告が載っていたからであった。
その時に、父親にズームレンズとその広告のカメラを買うつもりだと相談した。
しかし父親からはズームレンズのF値が大きく暗いレンズなので賛成はできないと言われた。
そこでちょっと心が折れたが、カメラを買いたいという気持ちは無くならなかった。
それと同時に薄ぼんやりと、「老後の楽しみに写真を撮る」言うような事が頭の中に浮かんだ。
それからカメラ雑誌を買うようになり、写真と言うよりはカメラについて少々勉強することになった。
それから半年してからだったろうか、ようやく自分の意志でカメラを買うことを決意する。
当時、東京で学生をしていた弟に、カメラを買ってくれるようにお金を渡した。
その時に買ったカメラとレンズが、Nikon FE2とAi Micro-Nikkor 200mm F4(IF) であった。
とにかく望遠レンズが欲しかったのである。
それからポツポツと写真を撮るようになったが、何を撮っていいか分からない。
撮りたいという欲求が湧いてこないのである。
確かに200mmと言うレンズは、最初にしては極端なレンズだったかも知れない。

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【写真を撮る:その2。】

その後、高校に入った時に、別の高校へ進学した友達が写真を始めており、彼の撮った写真を見せてもらった。
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それが唯一の写真を撮る動機になっている。
しかしながら、カメラを構えて写真を撮り作品を残すということは無かった。
だが、その写真を見たことが切っ掛けになって、心のどこかで写真を撮りたいという気持ちを持ち続けた。
社会人になり仙台で働き始めて2年目に、後輩が入社してきた。
その彼が、給料でカメラを買った。
それが羨ましかったが、その動機に愕然とした。
それは、写真を撮りたいと思ってカメラを買ったのではなく、CMに出ていたタレントのファンになったから買ったということ。
そのカメラはミノルタのカメラ、タレントは宮崎美子であった。
その行為にある種の衝撃を受けてしまった。
仙台の会社を辞めた後に、現在まで働いている会社に入ったが、やっと給料でカメラを買おうという気が起きた。

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【写真を撮る:その1。】

写真を撮る切っ掛けを書こうと思ったけど、それらしい切っ掛けは無かったような気がする。
強いて言えば、親世代に写真を撮るというブームがあって、両親とも写真にはまった時期があった。
それが最大の切っ掛けになるのだと思う。
小学5年の時、仙台の国立病院に入院したことは、別の項目で書いた。
その時に、小さいハーフ判※1のオリンパスペンというカメラを買ってくれた。
要するに暇つぶしになるようにと言う事なのだろうと思う。
入院中は友達や院内を色々と撮って回っていて、確かに写真への興味を持つようになったのだが、それが趣味の写真というわけでは無かった。
写真を撮るという興味が湧いたのは、小学6年の時に友達と始めた天体観測からだったように思う。
星の軌跡や月食や月の表面などを撮るようになってから。
その後に、中学に入り部活動とは別に授業としての必修クラブというのがあって、その時に写真部へ入った。
そこで1枚だけではあるが、ネガフィルムの現像と焼き付けを行った経験があるが、それだけの事である。
積極的に風景や何かを撮影したと言うことは無かった。
※1(ハーフ判とは、35mmフィルムの場合、1コマの記録有効範囲は24mm×36mmであるが、ハーフ判は24mmx18mmとなる。従って、通常の24枚撮りフィルムの場合には48枚撮りになる。)

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【写真を撮る】

自分にとって、写真を撮るというのはどういうことなのか。
写歴が長い割には、本当に撮りたい物が見付かったのは、つい最近という。
中々完成しない難しい趣味である。

写真を撮る。
それぞれの人にそれぞれの目的があるように。
記録だったり記念だったりコンテストだったり。
自分も写真を撮っている。
昔は子どもの成長を記録する事だったり、事実を記憶する事だったり。
そして、アートとしての写真を意識する。
難しい。

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【天体観測】

初めて観た土星の輪はとても感動的だった。
「天体観測」なんて言うとかなり大げさな物になってしまうだろうか。
子どもの頃に天体望遠鏡で星を観るのが好きだった友達同士3人が集まって始めた趣味サークルみたいなものかな。
小学校の6年生から中3の夏休みぐらいまで、友達とグループで天体観測をしていた。

星を観るのが好きな友達同士が、最初は3人集まった。
3人は天体望遠鏡を持っていて、それぞれに星を観察していたのだが、何かの拍子で一緒にやらないか?と言うことになった。
冬休みや夏休みの長期休暇では、定期的に集まって望遠鏡を覗いていた。
もちろんそれだけでは無くて、ちゃんと観測や天体に付いて模造紙に書いて貼り出し、学習発表のような事もしていた。
図書館などで、星に付いて調べたり、観測した星の写真を撮ったりして、発表をしていたのだ。

自分がちゃんと撮れた写真としては皆既月食がある。
先日も皆既月食に近い月食があって赤銅色になったというが、その時の月も赤くなっていた。
これはこれで、とても感動したものだった。
皆既月食当日までに、フィルムはどれが最適か、絞りはどうするか、バルブの時間が長すぎると流れるとか、そういう下準備をしたものだった。
その皆既月食の観測から定期的に集まるようになったんだったかなぁ。
当然のことながら、天体観測は夜暗くなってからが本番。
小学6年生で夜中まで外にいて活動しているなんて、今の時代ではとてもできる事では無いのかも知れない。
自分たちも、学校からの夜間活動の許可はもらった。
それは中学の時も同じである。

中学に入ってからは、とても仲が良かった友達が、1~2人グループに加わって人数が増えた。
最初のうちは、星を観るのが目的だったが、後からどんどん人が集まるようになった。
人が増えるにしたがって、夜に遊ぶということが目的になった。
これはこれで楽しかったな。
もちろん本来の目的の天体観測も忘れてはいなかったが、友達どうしてワイワイガヤガヤするのが楽しかったのだ。
きっとそれは今の時代でも同じだろうと思う。

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【くじ運:その4。】

そしてそして、次の年。
正確には2020年、会社の新年会である。
恒例のくじ引き。
今度は2等が当たってしまった。
抽選会、上位までたどり着くには結構な時間が掛かる。
自分の番号が中々呼ばれないので、半ば諦めて飲んだり食べたりしていたのだった。
番号を呼ばれて、ビックリしたのだったが、こんな上位の賞品が当たるとは夢にも思って無かった。
lottery04.jpg
トースターその賞品とはトースターであった。
渡された時は、きれいに包装されていたから分からなかったけど、家に持ち帰って開けてみると、結構なお値段がするやつだった。
ちょうど娘が持ってきたトースターは壊れそうになっていたので、これは助かった。
今でももちろん、家族は毎日使っている。

これで運も使い切ってしまったかも知れないなぁ。

The END.

tag : #くじ運

【くじ運:その3。】

次の年、やはり同じく会社の新年会。
この年は、ちょっと痛い感じだった。
番号を読み上げられた時に、自分が持っていた札の番号だったから、席から立ちかけて受け取りに行こうとしていた。
そうしたら、自分とは結構離れた席に座っていた女性も立ち上がって、何の疑問も持たずに賞品を受け取ってしまった。
くじ引きの担当者は、当たり番号を確かめもせずに、当然のようにその彼女に賞品を渡してしまった。
う~ん、ちょっと異議を唱えようかとも思ったが、面倒なのと少し酔っていたということで、賞品はそのまま、その彼女へ上げてしまった。
肝心の賞品はと言うと・・・何だったかなぁ。
ちょっと大きな箱に入った物だったのは覚えてるんだけど、中身の方は忘れてしまった。(汗)

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【くじ運:その2。】

この賞品ポット以降は、近年まで大きな物に当たったことが無かった。
例えば、部署の年末恒例のくじ引きでは、せいぜいビール券2枚がいい所。
お年玉年賀状は、切手シートが1、2枚。
ところが、今から5年ぐらい前に、会社の新年会のくじ引きでサントリーオールド「新春バージョン」が当たった。
会社のくじ引きは、受付した時に番号札を引いて宴会途中でくじ引き大会をするという、良くありがちな抽選会である。
そのオールドは、2次会とは別口の自分一人で飲みに行って、そこの店にプレゼントしてきた。
その店からは、程なくして飲み切ったという話しを聞いた。
そりゃ、そうだ。
飾るための物じゃ無くて、飲むためのボトルである。(笑)

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【くじ運:その1。】

最初の当選では、もらった賞品は、象印の白い電気ポットだった。
いつの事だったかは忘れてしまったが、結婚式の2次会だということは覚えている。
しかし、誰の結婚式の2次会だっただろうか。
同級生の女性だったということは、何となく覚えているが、きっと新郎新婦とも同級生だったのだろう。
ずっと昔の事だったけど、一関市内のホテルで行われた2次会から参加した。
コートを着ていった気がするので、寒い季節だったんだろう。
ご祝儀を出すと言うことでは無くて、会費制と言うことだったから、少しは気持ちが楽だった。
受付で会費を払い、そこでくじの中から自分の好きな番号を選ぶという方式だった気がする。
きっと誰もが避けて通るであろう数字だと思い13を選んだ。
そのくじ引きはビンゴ大会である。
自分は中々リーチもできていなかったのだけれど、一つ二つと当たっていくと、あっさりとビンゴになった。
賞品を受け取り席に戻った時に、結構大きな荷物になったから、以降の飲み会に持って歩くのは大変だなぁと思っていた。

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【くじ運】

くじ運が悪い自分だと思ってきた。
事実、何度か購入した宝くじや、商店街の福引きなどには当たったことが無かった。
けれど、時にはビンゴ大会やくじ引きで当たりを引くこともある。
あんまり意識はしていなかったけれど、ちょっと大きな物に当選したりしている。

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【新聞配達:その6。】

自分が配達をした期間は9月から2月一杯。
当初の目的のギターはお正月に手に入れていたから、もう新聞配達をしている意味が無くなっていた。
そろそろ辞めて受験勉強でもしないといけないなぁ(いやいや、そんなことはするはずがない)と思い始めて、1月の下旬に辞めることを申し出ていた。
辛くもあり楽しくもあった5カ月間だったけれど、それはそれで貴重な体験になっているはずである。

あの新聞配達から何年かして、大人になり一関に戻ってきていた。
ある日、実家に新聞の集金に来た人がいた。
まさか実家でもあの新聞販売店から新聞を取っていたなんて、想像もしていなかった。
顔を出したのは、あの懐かしい販売店の店主であった。

そして最近になって理解できたのだけど、店主の指が無いのは、きっと印刷関係の仕事をしていて、断裁機か輪転機に指を挟んでしまったのではないかと。。

The End.

【新聞配達:その5。】

勤労感謝の日だったろうか、新聞配達の少年を集めて慰労会のようなことを開いてくれた時があった。
多分、販売店ではなく、もっと上の団体からであっただろう。
市内の、今では多少なりとも立派になって同じ場所で商売を続けているが、当時は蕎麦屋とも食堂とも言えない店の2階の宴会場にみんな集められた。
どんな状況だったかは覚えていなかったが、伸びたうどんがを食べたことは覚えている。

その席で、何人かの人たちが慰労の言葉をスピーチしていたが、どうも気に入らなかったのは、どこかしら上から目線で、「お前たちは貧しくてかわいそうだ。一生懸命新聞配達をしてるから、今日は慰めてやる」という風にしか聞こえなかった。
そう感じた子は他にはいただろうか、自分は帰る時には、なぜか敗北感が一杯だった。

もう一つ、思い出を。
かなり配達にも慣れてきたころの話し。

色々な種類の新聞が仕分けされている台の上に、業界向けの読んだことが無い新聞が置かれていた。
メインの新聞は多少多く販売店に運ばれてくることを知っていたので、その業界紙も多少は多いのだと思って、いく種類かをゲットして新聞店を出た。
その日の配達がそろそろ終わりに差し掛かったことに、店主が自分に車で追いつき、大目玉をくらった。

それで初めて部数の少ない業界紙は多くないんだということを知った。

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【新聞配達:その4。】

また、別の日には、雪は降っていなかったが、路面がツルツルな日があった。昼間に降った雪が、一度融けて、再び凍ったのであろうか、
自転車で配達をしていたが、雪が降っても怖いとは思ったことが無かったが、この路面がツルツルだった日は、まともに進まない、曲がれない、停まれないで、転倒の危険があったで怖いと感じた。
スピードは出ていないので転倒することは怖くなかったが、転倒した時に配達する新聞が散乱してしまうのが怖かった。汚れてしまえば、配ることはできない。

その日は、いつもの日にまして注意しながら自転車をこいでいた。
前半を終わって道を折り返し後半に入ろうとした時、車ならばブラインドになってしまうカーブに差し掛かった。
さほどスピードは出していないつもりだったが、前輪がツルツルな路面で滑り制御できなくなってしまった。
次の瞬間、転倒。
と同時に、自分と自転車は道の反対側へと滑って行ったのである。
散乱した新聞は、凍結した路面が幸いして汚れてもいず難なく回収ができ、配達はそのまま続行することができた。

後から良く考えてみたら、あそこに車が差し掛かっていたら結構危なかったなぁと、今でもあのカーブを通るたびに思い出す。

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【新聞配達:その3。】

バイト期間中は早起きプラス寒さとの闘いだったような記憶しかない。

そのころは親父とよくスキーに行ってが、高速が無い時代だったので、どうしても早い時間に出発しないといけない。
盛岡の奥、雫石の網張スキー場がお気に入りだったが駐車場をまともな場所に確保しようと思うと、どうしても一関を朝の5時に出発しなくてはいけない。
途中から雪道になることも計算すると、2時間半は掛かってしまう。

ある日、網張へ行くことになったので、店主に4時からできるようにお願いした。
快く4時からという約束をしてくれたのだけれど、朝に店主が着いたのは4時半だった。
30分ぐらいの遅れならば、どうっていうことは無いのだが、時は真冬の2月。吹雪いている、ものすごい寒い朝だった。

その店主が来るまでは、当然ながら店の中には入れない。
仕方ないので来るまでの間、店の向かいにあった電話ボックスで時間をつぶすことにした。
この電話ボックス、風と雪を防いでくれるので、意外と暖かいのである。
もちろん暖房は無いのだが、風を防いでくれるだけで十分に暖かく感じた。
遠くの方から車のライトが見え、店主が到着した時にはホッとした。

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【新聞配達:その2。】

自宅には7時、遅くても7時半までには帰って来たいと思っていたので、5時に起きて出して行くことにした。
交替してくれた彼の話しだと、受け持ちは50部、時間にして1時間ぐらいだと。
そうすると5時に起きれば、間に合うと思ったのである。
ちょっとは、頭のウォーミングアップの時間が欲しいので、ちょっと早い気もするが、やっぱり5時起きでいいのだ。

最初の2、3度は彼が同行して配る家を教えてくれた。
そして、各家庭の名字を配る順番に書いた虎の巻の作り方も教えてくれた。止めたり新規に入ったりする人もいるので、それに対応できるようにするために必要だった。
一度覚えてしまえば、その虎の巻はいらなくなるのだが、最初は不安なのでポケットにあるだけでも心強かった。
幸いにして自分の担当地区はそれほど複雑ではなく、当時の国道4号沿いを南から北へ、少し中に入ったりしながら配って行くという、単純な経路だった。

交替の時期は9月の半ばだった。
彼は夏の朝でも気持ちの良い時をねらって配達をしていたのだったが、自分は寒さが厳しくなる冬に向かってだったから、ちょっと大変だった。
10月まではそれほど重ね着をしないでも、割と平気でいられたが、11月からはそうもいかなくなった。
特に手は冷たくなり感覚も無くなってしまうので、スキー用の手袋を使った。それでも、12月からは中に軍手もして二重にしないと、とてもではないが感覚が無くなって新聞を配るどころではなくなった。

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【新聞配達:その1。】

中学2年の時、なぜか同級生の間で新聞配達のバイトをすることが流行った。
もう誰がどうだったかは忘れてしまったが、何人かが新聞配達の自慢をしていた。
中には経済的な理由で配達をしていた人もいるかも知れない。
自分はフォークギターを買おうと思ったので、ある意味では経済的な理由なのかも知れない。
結局、正月に親に足りない分を足してもらって、目的のギターを買うことができた。

新聞は朝が来ると玄関に入っているので、誰から配っているなんて、それまでは考えたことも無かった。

どうやら、友達の何人かが新聞配達をしているというらしいのが。
友達と話しをしている時、新聞配達という言葉が出てきた。
したことは無かったので、なぜか新鮮に感じられた。
自分もその流行りに乗りたいという、そんな興味が湧いてきて、どこかにその口は無いかと何人かに聞いて回った。

その内に、自分は辞めたいから替わってくれと言うやつが見つかった。
早速その彼に交替と言う形で、新聞販売店に朝早くから出かけた。
店主は、話してみると案外優しいが、強面で左手の人差し指だったか親指が無かった。普段から薄い色のレンズのサングラスをしていたから、きっとあっち関係の人に違いないと、はなはだ失礼な勘違いをしていた。

tag : #新聞配達

【新聞配達】

新聞配達をしたことがありますか? 
中学のころ、なぜか友達の間で新聞配達が流行ったことがあった。
他のみんなは、もらったお金を何に使ったのだろう。自分は欲しかったギター購入の一部に当てた。
とても寒くて、恐ろしく眠い、自分の新聞配達に付いて語ろう。(笑)

tag : #新聞配達

【ワープロ:その4。】

その次に目をつけたのがPCである。
が、しかし、まだまだPCは高価だったので個人でおいそれと買えるものではなかった。
一説によれば一式80万円ともいわれていた。正確な値段すら怖くて調べる気にもなれなかった。
自分が手にしたのは、MSX仕様という半分はおもちゃみたいなPCであったが、国内の家電業界が手を組んだ画期的な商品であった。あれはアメリカ発のAT互換機に対抗するためだったのかな。
本体、プリンタを合わせて15万ぐらいで購入できたような記憶がある。
ディスプレーは付いていない。別売りであったのかどうかはわからないけれど、テレビに表示させて使用するのが一般的であった。
そのMSX-PCではゲームソフトが大多数であったが、その中にHALノートというちょっとビジネス向けでワープロと表計算ソフトがあった。
それを買ってきて使ってみたが、その頃にはワープロそのものには魅力を感じず、表計算でデータベースをしようにも、まともに動いてくれない残念なソフトであった。
多分テレビの調整をすればちゃんと端まで使えたのかも知れないが、そこまでは頭が回らなかった。
そして、そのPCではもっぱら大戦略というターン式のゲームをするのがもっぱらになってしまった。

そうこうしてる内に、NECのPC-98も何とかやっと手に入れることが出来る価格帯になってきた。
自分の興味もPC自体へ移り、ワープロなんかはどうでも良くなってしまったのである。(汗)

The End.

tag : #ワープロ

【ワープロ:その3。】

次に自分がワープロに出会うのは、そのシャープのワープロから3年が経った日であった。
その頃には仙台の会社を辞め、一関の現在の会社で働き始めていた。
当然自分の給料から、2度目の体験となるワープロを買った。
技術の進歩と言うのは恐ろしいもので、その頃になると家電量販店の片隅にワープロコーナーと言うのが設けられていて、一般の人でも手軽にワープロを買うことができるようになっていた。
当然ながら、機能も充実して値段もちょっと頑張れば、そう今のPCでちょっと高目の機種ぐらいの値段までになっていた。
また、形態もデスクトップ式で古いNECのPCの形のものやノートブックタイプのものが売られていた。
自分が買ったのは松下電器の「パナワード」というシリーズであった。
白色のバックにブルーの文字が、ものすごく格好良く感じた。そして形態はノートブックタイプである。
まだ東芝のPCダイナブックが出る前で、かなり重たいノートブックであったが持ち運びが簡単で、寒いときはコタツにも移動できるのがありがたかった。
そのパナワードには3.5インチのフロッピーがあり、作った文書が保存できると言うとても嬉しいものだった。
最初は、やはり新聞や本の文章を入力、保存して遊んでいたが、パナワードの中に入っていたデータベースの方が面白くなってきた。
今考えればかなり簡単なことしか出来なかったが、初心者でも取っ付きやすいカード型のデータベースであった。
そのデータベースで手持ちのレコードや本の管理をしようと必死にやっていた。
それと親戚から時々頼まれる習字教室の新聞を作っていたこともあった。
しかしながら、パナワードのデータベースではメモリ容量が小さくカードを200枚ぐらいしか持てなかったんじゃなかったかなぁ。
手持ちのレコードはそれ以上にあったので、パナワードでデータベースを作ることは諦めた。

tag : #ワープロ

【ワープロ:その2。】

黒のバックに緑色の文字が浮かぶ、今までには見たことが無いような機械。そう、ワープロであった。
あっ、自分はコンピューター系の専門学校を卒業しているので、当然そういう種類の機械は目にしていたし使ってもいたから、「今までに見たことが無い」って言うのは嘘になるか。多分、シャープのワープロだったと思う。
でも、日本語文字を表示してるのは国鉄のみどりの窓口の操作卓ぐらいでしか見たことが無かった。
事務員さんに聞いてみると、文具屋さんが売り込みのために置いていったのだという。
当分は無料だが、正式に導入するならば料金が発生するという。
いったいいくらのリース料だったのだろう。
一通りの説明を聞き、マニュアルを参考にしながら電源を入れてみた。
確かフロッピーのような記憶装置は無かった。ましてや現在のようなUSBへちょっと保存なんていうことは、その機械ではできなかった。
自分はそれまで英文のタイプライターを遊び程度に使っていたので、キーボードから入力するということに関しては慣れていたしアレルギーも無かった。このキーボードで入力することにアレルギーを持つと、PCの操作までかなり苦労していた先輩がいたから、それはそれで大変だったのだろう。ちなみに使っていたタイプライターはオリベッティではなくブラザーだった。(笑)
キーボード入力ではローマ字入力を選択する。当然のことながら今でもタッチタイプでローマ字入力する。
本職の文章打ち屋さんは日本語入力のほうがタイプする数が半分になるので、当然そちらのほうが早いということを聞いたが、51文字も配列を覚えていられない。(汗)
日本発のワープロの値段は600万円だったそうだから、今になって思えば、そのワープロの値段も百万単位だったかも知れない。
そのワープロでは残念ながら報告書を書くことができずに、もっぱら自分のおもちゃになっていた。
新聞や本の文章を面白く入力しては、その場で印字していた。
そして、お試し期間が終わった1ヵ月後に静かに去っていった。

tag : #ワープロ

【ワープロ:その1。】

ワープロ、正式にはワードプロセッサといい、言葉や文章を入力、表示、必要であれば文字を感じやカタカナへ変換し、そして印字するシステムである。
ざっくり言うとそういうことになるかな。
現在ではワープロと言えばワードや一太郎などのPC上で動作するワードプロセッサのアプリケーションが一般的である。ワープロ専用機と言うのは中古ではあるものの新品の商品としては存在していないのではないだろうか?
歴史的なことや技術的なことはググってもらえばすぐに出てくるのでそちらを見ていただきたい。
さて、自分が初めてワープロを扱ったのは、多分1982年の夏だったと思う。
仙台の会社に就職したという話しはあちこちで書きなぐっているが、その会社でのことである。
仕事上、どうしても役所やクライアントに対しては報告書を提出する必要があった。
その会社では報告書はある程度のフォーマットが印刷されたところへ、和文タイプライターで印字して完成させていた。
自分も和文タイプライターを使った何部かの報告書を提出した経験がある。
和文タイプライターでも結構な事ができるので、使い慣れてしまえば案外面白いツールではあった。
字を探すのは最初のうちは大変だが、そんなに突拍子もない字が出てくることは稀であり、大体はいつも使う漢字を探せれば事足りた。
ある日、現場から戻ってくると、事務所の中になにやら鎮座している機械があった。

tag : #ワープロ

【ワープロ】

ワープロ、今や中古の専門業者かオークション、博物館ぐらいでしか目にすることが無くなってしまった機械である。
機械といってもメカニカルではなく、ワードプロセッサーに特化したアプリケーションソフトを走らせるためだけのマシンである。
ワープロが市販化されてからあまり時間を経ないうちに遊ぶことができた。
その時の思い出を幾分演出を加えて文章にしてみた。(笑)

tag : #ワープロ

【ソーセージ】

高校の頃に知り合いになった友達の後輩。
彼の家に遊びに行くと、部屋にオーブントースターを持ち込んでソーセージを焼いてくれた。

ネットでの知り合いさんと、ソーセージを食べる時に何を付けるという話題になった。
自分は「焼いたソーセージに醤油をちょっと」と言ったのだけれど、「マヨネーズも美味しいですよ」と教えてくれた。
早速試したみたら、マヨネーズも美味しかった。(笑)

高校の頃に知り合いになった友達の後輩。
彼の家に遊びに行くと、部屋にオーブントースターを持ち込んでソーセージを焼いてくれた。
アメリカンドッグとかに入っているような太くて長いソーセージである。
今でこそ、ソーセージと言えば色々な種類が出回っていて、その味を楽しむことができるけれど、その当時の自分にとっては、ソーセージと言えば赤いウィンナーソーセージか魚肉ソーセージぐらいなもんだったかも知れない。あるいわボチボチとニッポンハムのウィンナーが出てきていた頃かな。
で、その彼が焼いてくれるソーセージは、何処の何と言うソーセージだったかは知らないけれど、お祭りの屋台なんかで売っていたアメリカンドッグに入れるやつだったんじゃないかなぁ。
でも、トースターで焼いていると、表面が焼けてきて、その後に中のほうまで火が通る。そうすると、中のほうからジワっと汁出てきて滴り落ちる。
そこをハフッハフッ喰らい付くのである。
不味いわけが無い。
そんな食べ方をすれば、そんなに高くないソーセージでもきっと美味しいだろう。
自分が高校を卒業してからはずっと縁が無くなってしまっていたが、今の会社に通うようになってからその家の入り口を見て再び思い出した。
今でもソーセージは大好きだ。
今はフライパンに油を少しひいて、表面に少し焦げ目が付くぐらいまで焼く。
そして、塩・コショーやマスタードではなく、醤油をチョロっとかけて、白飯で喰らい付く。
ささやかな幸せである。(笑)
その彼、今では立派な寿司屋の二代目になっている。
年に一度の大晦日、その寿司屋から出前を取っているが、ソーセージのことに触れたことは一度も無い。
きっと彼は忘れているかも知れないけれど、自分にとっては大切な思い出の1コマである。(笑)


The End.

tag : #ソーセージ

【初めての就職のこと】

学校を卒業して就職したのは、非破壊検査業という職種の会社であった。
会社訪問、面接の時に業種や会社の説明を受けたのだけど、実際に就職してみるまではどのような仕事内容なのかも知らなかった。
簡単に言ってしまうと、検査対象を壊さずに内部を検査するということになるのかな。
その会社は、X線、超音波探傷、磁気探傷を行っていた。検査品目としては他にも歪などがあるのだが、勤めていた会社では行っていなかった。
その会社は検査対象としては、ほとんどが溶接線で、水道管、ガスタンク、石油タンク、燃料配管などであった。

仙台での細かい現場をいくつか経験した後に、先輩と二人で青森ガスの球形タンクの溶接線X検査をした。
その現場は準大手の鉄鋼メーカーが元請となっていて、自分の会社は孫かその下の請負であった。
全数検査だと、X線フィルム何枚になったのだろう。
数十枚ごとに現像し乾燥させておく。何日かに一度、フィルムを検査し不良箇所は溶接の手直しをさせた。
もっとも自分の作業は検査箇所へのX線フィルムの貼り付けと回収であり、まだ検査補助員というような感じである。
大きな構造物ではその外側と内側に分かれての作業となるので、軽く叩いて何種類かの合図を出す。それに併せて、片方はX線装置を設置したり移動させたり、X線を照射させたり。また片方はフィルムを所定の位置に合わせ貼り付けたり、回収したりである。
時々やらかしてしまうのが二重露光。一度照射させてしまったフィルムを間違えてまた撮影に使ってしまうことがある。
それを防ぐためにはがしたフィルムの置き方に工夫をするのだが、ついついうっかりをやってしまう。
その度に撮影しなおしになってしまう。

その現場で知った専門用語というか通り名がある。
※溶接屋さん:電気屋 そのぐらいの規模の溶接は電気溶接であり、電気を扱うから
※グラインダー、バフ掛けをする人:鍛冶屋 グラインダーで火花を飛ばしているから・・・かな。
※検査屋:レントゲン屋 X線検査をするから

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その球形タンクを再び見てきた。
ずっと忘れていたのだけれど、青森のライブフェスに行った時に思い出した。
大体の場所は覚えていたが、当時の風景とは結構変わっていた。
偶然、ガス器具などの展示会ということで、ガスタンクの設置されている一画もじっくりと見ることができた。あれから何十年もここに建っていたのかと思うと懐かしいく思えてくる。(笑)

大分仕事にもなれ、X線フィルムによる検査の判断も出来るようになったころに、大きな現場を経験することになる。
当時は宮城県の七ヶ宿ダムから仙台へ水を供給するための大規模な水道施設が整備されていた。
七ヶ宿ダムの麓の白石市辺りでは直径250cmなどという、普通には考えられないような水道管が東北自動車道に沿って埋められている。
直線的な部分では1本が20mぐらいの大きな管が何十、何百本と埋設されている。
この水道管を溶接で接合させるのだが、その溶接部も検査対象である。
その検査のリーダーを自分が勤めた。
若い連中を2、3人連れて、毎日仙台から白石まで通った。
溶接の進み具合で日に3リング、多くても4リングのX線撮影をし、その場で現像、不良箇所のチェックである。
工事は県との入札での契約だったが、現場での溶接部門との契約もあった。順調に工事が終了したときの値段としては入札金額なのだが、溶接の検査としても契約が発生する。
つまり、たまたま腕の悪い溶接屋さんを雇ってしまった場合には、溶接部門へのやり直しが発生する。
その度に再検査になるので、その分はうちの会社の儲けになる。逆に言えば溶接部門の損ということになる。
自分が担当した1工区目は溶接屋さんがひどかった。
なので、工事が進まない。うちの会社はある程度利益を出すことが出来たのではないかな。
何ヶ月か後に担当した別の工区では、さすがに溶接屋さんも腕の良い人をそろえた。儲けは入札で受注した分しか無かったはずだ。(汗)

その他にも、自分が在籍していた2年間では、色々な現場、貴重な体験をした。
宮城県角田市のロケットセンターの燃料噴射試験装置、岩手県営球場の照明塔の支柱、むつ・小川原石油備蓄基地の煙突、ざっと上げただけでもかなりの大きな施設になると思う。
懐かしいものばかりである。


The End.

tag : #初めての就職のこと

【北海道】

北海道、一度のんびり、ゆっくり回ってみたい。
体力があれば自転車で、さすがにそれはもう無理なのでバイクで、それもちょっとしんどそうなので車で。(笑)

hakkoudamaru.jpg
青函連絡船八甲田丸

青函連絡船が廃止されて何年になるんだろう。
青森~函館間を4時間で結んでいた。
小学生や中学生の頃に連絡船に乗ったことが何度かあるのだけれど、出航するときはいつもなぜか泣き出したくなる感情にこみ上げてきたなぁ。
青函連絡船には車を積む船は無かったんじゃないかなぁ。その代わり国鉄が経営していたから、列車を積み込むような構造になっている船もあった。
記憶があいまいで間違っていたら申し訳ないのだけれど、人専用の船と列車も積める船があったような気がする。(ひょっとしたら全船、列車の積み込みが可能なのかも)
一度、夜中に出向する連絡船に青森から乗ったことがあったけど、その時に貨物列車を積み込んでいるのを見たことがある。
今でもその名残が青森駅の海近くに残っているんだけど、船の中にも線路があって、それと接続するようになっていて、列車が船の中へと運び込まれるようになっていた。

列車と連絡船の接続が悪いと待ち時間がかなり空いてしまうようなことがあった。
函館で何時間も空いてしまったことがあって、観光地めぐりをしたことがあった。
確か五稜郭や修道院、函館ドックを回ったことがある。十分に回れる空き時間だった。(笑)

中学の修学旅行の時は、なぜかスウェーデンの女性の人と話しをしたことがあった。
話しをしたといっても、住所を聞いて手紙を出すよってなことを言ったのと、「little」は使わない単語だと教えてくれたことぐらいか。(それが正解かどうかも分からないけれどね。)
後は何を言っているのか理解できなかった。
手紙、残念ながら出していないけどね。(汗)

青森港に係留されているのは八甲田丸で、多分乗ったことがあるかな。
今は博物館のような施設になっていて、内部も見学できる。
この八甲田丸の他に十和田丸や摩周丸に乗った記憶がある。

保存されている連絡船は函館にもあるらしい。
今度は函館の連絡船を見てきたいと思う。


The End.

tag : #北海道

【御茶ノ水】

御茶ノ水、最近になって何かしらのついでに良く回ってみる街である。
頻繁に行くところは楽器屋である。

御茶ノ水、最近になって何かしらのついでに良く回ってみる街である。
頻繁に行くところは楽器屋である。バンドを再開してからというもの、どうしてもギターやベースに目が行くようになった。
池袋や渋谷、秋葉原にも結構楽器屋があるのだが、数多くの楽器屋が軒を並べているので、比較しながら時間を潰すのにはとても都合の良いところではある。

学生の頃も良くこの街を歩いた。
その当時はまだ学生運動の名残である、大きな立看板が大学の校門のところに立てかけてあった。
楽器屋もあることはあったのだろうけど、あまり見て歩いた記憶がない。
JR御茶ノ水駅で降り、ブラブラと歩いて古本街や神田の方へ向かうのが恒だったような気がする。
自分は京浜東北線沿線の蕨というところに住んでいたから、どうしても秋葉原で総武線への乗換えが必要になった。
けれど、電車の乗り換えに慣れていなかったので、必ず秋葉原のホームで迷ってしまうのである。
どこをどう通るのか忘れたけれど、ホームに出てみればそこは浅草橋、両国方面である。
本当は御茶ノ水へ行きたいんだけれど、なぜか反対側のホームへ出てしまうのである。
あの、ホームが立体交差しているのは違反だよ。(汗)

ある日、御茶ノ水の段違いになったホームに下りた時、ずっと小さい頃の記憶が蘇ってきた。
5歳の時の記憶である。
実はそのホームで、総武線を止めてしまったことがあった。
親戚の葬儀のために、新宿から中央線に乗り長野へ向かう途中であった。
ひどく喉が渇いた自分は、水が飲みたいと親父に駄々をこねた。
そして、親父は水を汲みにホームへ降り、水を汲んだ後に降りた入り口とは別の入り口から乗った。
それを知らない自分は、不安になって追いかけて降りたんだろう。
その辺の前後は記憶が無いのだが、電車を止めて乗ったという記憶ははっきりしている。
それでもまぁ、許されてしまったおおらかな時代であった。(笑)

The End.

tag : #御茶ノ水

【バイク乗りに憧れて】

割りと小さい時からバイクに乗りたいと思っていた。
今では諸事情からバイクに乗ることができないけれど、また乗ってみたいなぁとずっと思っている。

バイクのこと

今はちょっと余裕が無いので乗ってはいないのだけど、自分はバイクも好きだ。
メカニック的なことは弱いので、どちらかというと乗るのが専門という感じ。
でも、プラグ交換ぐらいはできるけど。

初めてバイクに跨ったのはいつごろかな。
多分小学校の2年か3年ぐらいだったと思う。
小学校の職員用の自転車置き場にホンダのカブかヤマハのメイトが置いてあった。
それに跨って一著前に乗っている気になっている。
案外その遊びが楽しかったんだろうなぁ。こうして何十年も経った今でも覚えているから。

ちゃんとエンジンを回して走ったのは、多分中3の時かな。
その時は余り興味が無かったんだけど、1つ上の先輩が高校に入ってバイクの免許を取った。
そして原チャリに乗って友達の家に遊びに来た。調度自分も友達の家に遊びに行っていたので、彼の家の近所をグルっと走り回った。
一時停止で止まって、そこから発進するときに、前輪が浮き上がってウィリー状態になったのは怖かったなぁ。

自分の意思で、乗りたいと思って運転したのは高校に入ってからかな。
それでも、自分の高校はバイク免許は禁止だったので、こっそりと乗ったり工事中の堤防でモトクロスの真似事をした。
結構斜度のある盛土を一気に上ったりジャンプしたり。楽しかったなぁ。
ある時、堤防で斜面を登りきったときにアクセルを戻すのを忘れて、ジャンプしてしまったなぁ。そして転倒して自分の足の上でタイヤが回っていことがあった。
そのバイクは軽かったので擦り傷ぐらいで済んだから良かったけどね。
やんちゃだったな。

仙台に就職したときに、自分のお金でバイクを買った。
ホンダモンキーのクラッチ付きの中古を10回払いで。
原チャリだったけど、それで仙台の街中をあちこちと走り回った。
ローンが完済しないうちに、会社の入り口の歩道に乗り上げて滅茶苦茶になってしまってお仕舞だった。
それでも怪我は擦り傷程度だったから、幸運だ。(笑)

一関に戻ってきてから自動二輪を取った。
当時は中型という名称で400ccまでバイクに乗れる免許である。
必死になってお金を貯めて、250ccのバイクを買った。
そのバイク、レッドゾーンが17000回転なんていう、恐ろしいバイクだったなぁ。
でも、トルクは厚くて街中でも扱いやすかった。逆にアクセルを開けると結構早くて、平気で180km/hぐらいのスピードは出ていたな。
色々と走り回るのが好きだったので、そのバイクではよくツーリングに行ったり、峠に行ったりした。

また余裕ができたらバイクに乗りたいなと思っている。
大きなバイクでなくともいい、高速道路を走れる程度のバイクでもいいから。
そして、またツーリングをしたいなぁと、密かに企んでいる。(笑)

The End.

【2度目の入院:その6。】

松葉杖は秋ごろまで使っていたんじゃないかな。
夏の暑いときには、病棟の廊下の温度と気温・湿度の差で結露する。
廊下の真ん中に滑らないようにと絨毯みたいなものを引いていた。それでも松葉杖をその絨毯から外についた時は、情けないほどにつるっと滑って転んでしまう。
あの廊下は随分と硬かったなぁ。今のようにエアコンで空調をするのが一般的ならば、結露するなんていうことも無かっただろうに。(笑)

ギブスが取れて、最初の3日間だけは車椅子を使わせてくれた。
自分はずっと車椅子を使いたかったのだけれど、歩くことが最大のリハビリなので無理にでも歩く必要があったのだ。
自分の場合は、歩くときに足を保護するために松葉杖を使うのではなく、筋力がなくなってしまったので足をついたときに転ばないように支えにするために松葉杖を使ったのである。

長くなってしまった。
書いているうちに色々と思い出してきた。
楽しかったことや恥ずかしかったこと、淋しかったことが昨日のように思い浮かんでくる。
それを一つひとつ書いていると収拾が付かなくなりそうなので、この辺で自分の人生の中でも最大級のイベントだった小学校5年生の8ヶ月間を締めくくりたいと思う。

The End.

tag : #2度目の入院

【2度目の入院:その5。】

それ以上に大変だったのがギブスだ。
麻酔が効いているうちは感じていなかったが、麻酔が取れた瞬間から、膝を曲げて固定されてる窮屈感が襲ってきた。麻酔後の痛みどころではない。人間はあちこちを動かしながら全体のバランスを保ち生きてるんだなぁと、今更ながらに思う。

自分の足も膝を90度に曲げ、しかも上半身は真上をむいて動かせない。
ギブスは胸の下から巻かれ、手術した右足を膝下まで固めていた。
今考えても恐ろしい。(汗)
ためしにやってみると良く分かる。腕も90度に曲げて、その姿勢を何時間も我慢する。さて、どうなるか・・・。

ギブスはどのぐらい巻いていたのか覚えていない。
最初の1週間は窮屈感との戦いだったが、その後に少しだけ動かせるようにギブスに切り込みを入れた。
そうしたら随分と楽になったので、余り苦しいという記憶はない。
多分6月ぐらいにはギブスをはずしたんじゃないかなぁ。

それからは松葉杖をついて歩いていた。
そしてその後に待っていたのは苦しいリハビリであった。
自分のリハビリは90度に曲げていた足を90度よりももっと深く屈折できるようにすることと、なくなってしまった筋力を付けること。
曲がらない足を少しずつ力を入れて曲げていく、これがもう涙が出るほど痛かった。

けれど、自分の痛さは、筋ジストロフィー症の症状の進行を遅らせるリハビリに比べればたいしたこと無いと思えた。
自分がリハビリを受ける時間帯に筋ジスのリハビリの人が来ていて、それを目の当たりにすると自分の思いは大したことが無いのだなと思わされたのだ。

tag : #2度目の入院

【2度目の入院:その4。】

手術当日、病室で朝から手術の準備だった。
手術着に着せ替えさせられて、点滴をしていたが、手術室に入るのは自分は2番目で、時間的に少し余裕があった。
今はどうなのか分からないけれど、当時は自分も子供だったということもあってか、手術があるというのは入院していた病棟では一大イベントに近い感じであった。
手術前の準備には出勤していた病棟の看護婦さん総出で当たってくれた。普段は会話もしたことの無い婦長さんまで病室に来て励ましてくれた。伊藤婦長だったなぁ。

病室から手術室までは結構な距離があったので、ストレッチャーに乗せられ天井を見ながら連れて行かれた。
その後は全身に消毒液を塗られ、下半身麻酔をした。
麻酔が効いたかどうかは、注射針を注して確認していた。不思議なもので針が刺さっているのは目で確認できたのだけれど、全然痛くない。何も感じない。そして足も動かなくなってくる。
手術の時は、その光景が見えないように胸の辺りに幕が下ろされた。けれど、医師や看護婦の話しは聞こえていたし、手術用具のぶつかる音などもちゃんと聞こえていた。
そうこうしているうちに疲れてたのだろうか、寝てしまった。
目が覚めたときは病棟へ入っていく扉が開いたときだったな。

手術自体は大変だとは思わなかったが、それ以降ギブスが外される日までが大変だった。
まず手術初日から次の日にかけて、内臓が動き出してガスが出るまでは何も食べられない。
もちろん水をゴクゴクと飲ませてもらえるはずも無い。けれど、喉が渇いて仕方ないので、脱脂綿に水を含ませてそれを吸って喉の渇きを・・・。慰めにもならないな。(笑)

【2度目の入院:その3。】

病院食は夕方から出されたが、最初の夕食はうどんのようなものだった。
あまり美味しいとは思えず、多分少し残したのではないかな。
病室には5人の男子がいた。肺結核のために1年留年しているS君、ペルテスで名取から来ていたN君、同じペルテスで仙台市内から来ていたM君、やはりペルテスで後に自分の一番の友達になってくれたH・N君、一つ空いて自分である。
その1ヶ月もしないうちに脊髄カリエスで登米からT君が来て、病室は満員の6人になった。
最初は病室が時代劇の牢屋のように思われて、一つ年上のS君が牢名主に思えてしまった。
次の日からはそんなことは少しも感じなかったのだけれど、手術や入院生活への不安とホームシックとが交錯してしまったのだろう。(笑)

手術は5月の連休明け、5月6日だったなぁ。
火曜日と木曜日が手術の日になっているようで、連休明けということになったようだ。
5日子供の日は良い天気だった。
病室前は砂場や遊具などがあってちょっとした遊び場になっていた。
何を話したのかは覚えていないけど、隣の病室にいた脳性麻痺で入院していた男の子と話した。
その時のお日様と風は今でも忘れない。そして、明日自分が手術だという不安も忘れてはいない。

tag : #2度目の入院

【2度目の入院:その2。】

前置きが長くなってしまったが、その入院生活で思い出深い出来事を書いてみる

小学校5年生の4月に入院し12月に退院した。
入院したのは4月6日、新学期に間に合うように朝から移動して入院手続きと入学手続きを行った。
地元の一関市立山目小学校にも、多分1日だけか登校したはずであるから、途中で転校という形になったのだろう。
その入院の日、親父とお袋と自分の3人は親父の運転する車で仙台へと向かった。
親父は何を勘違いしたのか、仙台市内の国道4号と45号の交差するところから東に向かってしまった。
途中で人に道を聞いて、また西多賀へ向かったのであるが、親父の勘違いは仙台の東にある多賀城である。
まぁ、そんなこんなで4号線の南下し、おそらく名取川に架かる名取大橋のたもとから西多賀に向かった。
記憶ではバイパスの方なのか旧国道の方なのかは定かではないけれど、橋の欄干には大きな石の球体が乗っかっていた。どちらだろう?

病院側からは○時までに来て欲しいとのことだったけれど、道を間違えたおかげでギリギリ滑り込みだった。
それが入院第1日目の始まりである。
その日のことは、やはりちゃんと覚えている。
朝の入学手続きの時に、隣の病室に入院する多賀城から来た女の子がいたのを覚えている。彼女は症状の軽い脊髄側湾症で夏ごろまでいた。
手続きが終わったころにお昼近くになったのだと思うが、食堂でラーメンを食べたのを覚えている。
おそらく手続きが終わった後に、検査をしたのだろう。
その後に看護婦さんと会い、病室でのことなどの説明を受けて、いよいよ病室へ、入院である。

【2度目の入院:その1。】

小学校5年生のことである。
おそらく人生2度目の入院生活だ。
自分のサイトにも時々名称が出てくる、宮城県仙台市にある「国立療養所西多賀病院」(現独立行政法人国立病院機構 西多賀病院)で「大腿四頭筋拘縮症」の治療で8カ月の病院生活を送った。

自分は小さい頃に体が余り健康ではなく、よく市内の総合病院にお世話になっていた・・らしい。
そこで治療のために太もも(大腿四頭筋)へ筋肉注射をされていた。
それが原因で、筋肉が固まり成長するにつれて足を引きずり独特な歩き方をするようになってしまった。
それが大腿四頭筋短縮症である。
具体的な治療方法は理解していないが、手術で萎縮した筋肉を(どうにかする?)、手術の後にある程度の期間、膝を屈折させたままギブスで固定し太ももの筋肉を伸ばす、ギブスをとった後はリハビリにより筋力を付けることと筋肉を伸ばす・・ことが一般的ではないかな。
西多賀病院には一関からの子供たちが大腿四頭筋拘縮症のために断続的に何人も入院した。
自分もその中の一人である。

西多賀病院は脊髄側湾症(だったと思う)や股関節ペルテス、進行性筋ジストロフィー症の子供たちが大勢入院し治療していた。
そんなわけで、西多賀病院には分校として小中学校が併設されていた。現在でも小中学校が併設されているのではないかな。
病室がそのまま教室になるので、子供たちは楽しい学校生活も一緒に送れるというわけである。
そう言えば当時の病院の住所も覚えている。
「宮城県仙台市鈎取字紅堂13 国立西多賀病院 6下8号」である。
最後の6下8号は6病棟の1階8号室という意味である。
ちなみに下は1階で上が2階という意味である。(笑)

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【2度目の入院】

2度目の入院である。
小学校の5年生の時に、仙台にある国立療養所西多賀病院(現独立行政法人国立病院機構 西多賀病院)という病院に8ヶ月の間入院していた。
かなり昔の事であるが、自分にとっての原風景というこの8ヶ月間に起きたこと見たことが、自分の人生を支えていると言っても大げさでは無いかも知れない。
色々と思い出すことも多いのだけれど、その中でもかなり印象的だった日のことを書いてみた

tag : #2度目の入院

【初めての入院】

よく考えてみたら、自分はよく入院したなぁと思う。
産まれた時は病院だったけど、それは入院してたとは言わないよね。

よく考えてみたら、自分はよく入院したなぁと思う。
産まれた時は病院だったけど、それは入院してたとは言わないよね。当然それは含めないとしても、今までに覚えているだけでも4回も入院している。
初めて(と言っても自分が覚えている内でっていうことだけど)入院したのは小学校の1年生の時だったか幼稚園年長さんの時だったなぁ。
病名ははっきりと覚えていないのだけれど気管支炎と聞かされていた。もっともそれも正確ではないかも知れない。
入院先はお袋の勤め先でも有る、国立療養所岩手病院。今ではなんていうのだろう。
小学校の1年生までは体が弱くて、しょっちゅう病院に通っていた。だから、その当時のことを思えば気管支炎で入院したとっても、自分自身としては驚くことではない。
どういう状況だったのかは覚えていないのだけれど、熱があり具合悪かったのは覚えている。
親父の車の助手席に、シートをフラットにして、そこに寝かせられ病院まで連れて行かれた。
車の窓から見えた電線がグルングルンしているぐらいめまいがしていた。
それが入院したときの記憶である。

どの位入院したのかは覚えていないのだけど、体調が良くなってきた頃に歯科に連れて行かれた。
総合病院なので当時は歯科医も常駐していた。
その先生は割りとお年を召されていたと思うが、公務員なのでまだ60前だったはずだ。
で、自分には小さいときから八重歯が有る。右上の糸切り歯が八重歯になっている。それをお袋が気にしていたのか、八重歯を抜くために歯科に連れて行かれた。
その歯科医が言った言葉は今でも忘れられない。
「新しいペンチだからね」
抜歯するときの医療器具を何と言うのか分からないけれど、その歯科医はピカピカに光ったペンチを見せてくれた。
腕は良かったのかどうかは分からないが、ものすごく痛かったことを覚えている。
そして苦労して抜いてもらったのだけれど、残念ながら永久歯の方は抜いたスペースには収まらずに、何十年も経った今も八重歯になっている。(汗)
抜歯のことが余りにも強烈だったので、その入院のことはほとんど覚えていない。そして、それから歯医者には行ったことが無い。
トラウマとでもいうのだろうか。

The End.

tag : #初めての入院

【モンブランのボールペン】

お気に入りだったのに失くしてしまった、お土産にもらったモンブランのボールペン。
ずいぶんと遠い昔の話だけど、ネットショップを見ていたら思い出した。

確か小学校の6年の時の出来事だったと思う。

叔父が海外へ旅行してきた。音楽関係の研修旅行だったはずで。
でね、それでお土産をいくつかもらった。
小さいサーベルのペーパーナイフ、革製のしおり、そしてモンブランのボールペン。

そのモンブランのボールペンはお気に入りで、筆箱の中に入れて学校でも使っていた。
けれど、教室で自由時間に、友達がふざけてすっ飛ばしてしまった。
普通ならば拾ってくれば良いことなのだけれど、運が悪かったぁ。
その頃の教室は木造校舎でかなり古く、壁と床の所に手は入らないけど、鉛筆なら転がって入ってしまうような隙間があった。
お気に入りモンブランのボールペンはその隙間から落っこちてしまった。(汗)
必死になって隙間に手を突っ込んで、ボールペンを取ろうと思ったのだけど、全然ボールペンには届かなくて諦めてしまった。
今考えると、どうせ後数ヶ月で壊してしまう校舎なのだから、壁か床の板を引っぺがしてもよかったんじゃないかなぁ。
そうすればよかったなぁと思う。

そして、自分たちはその小学校を卒業してしまうわけだけど、その年の夏に、その木造校舎は取り壊されてしまったのである。(涙)

はぁ、あのボールペンはどっかへいっちゃったままなんだろうなぁ。
革製のしおりはどこかへ行ってしまったが、サーベルのペーパーナイフは今でも取ってある。
錆びてしまってペーパーナイフの機能は果たさないのだけどね。

The End.

tag : #モンブランのボールペン

【私をスキーに連れてって:その6。】

結構長いスキー暦なのだけど、一つだけ達成していない夢がある。
カナダの氷河を延々と滑りたいと、いつ頃からか思っていた。
けれど、この夢はかなえられそうに無いと思い始めている。
さすがにもうガンガンと攻めるスキーができるほど、体力は残っていない。
おまけに心臓に爆弾を抱えてしまった。医者からはスキーは疑問符付ながら、大丈夫と言ってもらえたのだけど、自分のスキーでは、心臓は耐えられないのではないかなと思っている。
ただ単に行楽のスキーでは納得できない自分、ガンガンと攻めるスキーが好きな自分。やはりカナダの氷河無理だろうな。

The End.

tag : #私をスキーに連れてって

【私をスキーに連れてって:その5。】

そして、もう1度は小樽。
小樽は初日にキロロというメーカー系のリゾートスキー場を滑った。天気は良くなかったが、変化に富んだゲレンデは楽しかった。
次の日の午前中に滑ったのは天狗山というローカルなスキー場。
けれど、そこの一枚バーンがすごい。かなりの急斜面でこぶも大きく楽しく滑れた。けれど、ジモティは違うんだね。そんなに難しくないバーンをガンガン飛ばす。幼稚園からご老人までガンガン攻める。それが北海道のスキーなんだと感心した。
もちろん下手なはずが無い。攻めることでスピードや雪面への対応を体で覚える。テクニックは自然と後から付いてくるのだろう。いや、むしろ頭でっかちなテクニックは要らないのかもしれないな。

tag : #私をスキーに連れてって

【私をスキーに連れてって:その4。】

スキー場で酒を飲むという別の楽しみを知ったのは、会社に入って会社のスキーツアーに参加するようになってからだ。

会社のツアーでは3度ほど北海道にすべりに出かけた。
2連休しかなかったので、夜中の寝台列車に乗り朝一番でゲレンデ入り。
その晩は泊まって飲みに出る。そして次の日の午前中まで滑って、夕方の寝台に乗って帰ってくるという感じだった。
それでも北海道でスキーをするというのは、子供の頃からの夢だったので、そういうツアーの企画をしてくれた先輩には感謝している。

3度の北海道ツアーの内、2度はニセコである。
ニセコのパウダーを滑った事は一生忘れることのできない感激だった。
雪が軽い。何しろ腰以上深い深雪でも、平気で滑れてしまうのだ。そんな軽い雪は本州では味わうことができない。しかも雪の深さもこちらだと、せいぜい膝ぐらいではないかなぁ。

tag : #私をスキーに連れてって

【私をスキーに連れてって:その3。】

本格的に滑ることに目覚めたのは20歳も過ぎてから。
同級生の中には何人かスキーが上手い奴がいた。
いつも一緒にすべりに行っていた友達の背中を追いかけるように、ゲレンデはもちろん人が滑らないような急斜面や深雪・悪雪を攻めるようになった。
今でこそモーグル競技がかなりメジャーになって、こぶを滑る人も多くなったけれど、当時はこぶ斜面を滑ることにもある種の快感があった。
もちろん、オフ・ピステを滑るためにはそれなりの技術も必要であったが。

まぁ、それでも結局彼の背中は越える事ができないまま、彼はスノーボードの世界へ移ってしまったのだが。
彼にもすごく感謝している。
いわゆる体育会系のスキーだったので、スキーを外すのはお昼時と帰る時。それ以外の時間は常に滑っていた。
今思えば、彼とすべりに行っていたときは、スキー場でビールを飲むなんていうことすらしなかったなぁ。

tag : #私をスキーに連れてって

【私をスキーに連れてって:その2。】

当時、親父の方がスキーに夢中で、一人でリフトに乗れるようになると、自分はスキー場に着くなり置いてきぼり。後は一人でリフトに乗りゲレンデを滑り降りていた。
お昼の時間になると、どこからともなく親父が現れて一緒にお昼を食べていた。午後になるとまたどこかへ行ってしまっていたな。
そのことは別にどうとも思わず、そんなもんだと他の人が滑るのを見よう見まねで滑っていた。
ただ、当時の装備というのが貧弱だったので手足が冷たくなるのが辛かった。

今でも良く覚えているのは、マラソン大会のラジオ中継。
どこのマラソンだったかな?
大分別府とかそういう所のマラソンだったと思うけど、雪が多く降り積もったゲレンデでマラソンの中継を聴くということに何となく違和感があったのだろう。
同じ日本、九州だって岩手だって寒くて雪が降っているものと疑っていない子供の頃だったなぁ。

それでも、親父に強制的にせよスキーをさせられていたと言うことには感謝している。
なぜなら、そういう事がきっかけにでもならなければ、わざわざあんな寒いところへ行ってスキーをするということは無かっただろうと思う。

【私をスキーに連れてって:その2。】

当時、親父の方がスキーに夢中で、一人でリフトに乗れるようになると、自分はスキー場に着くなり置いてきぼり。後は一人でリフトに乗りゲレンデを滑り降りていた。
お昼の時間になると、どこからともなく親父が現れて一緒にお昼を食べていた。午後になるとまたどこかへ行ってしまっていたな。
そのことは別にどうとも思わず、そんなもんだと他の人が滑るのを見よう見まねで滑っていた。
ただ、当時の装備というのが貧弱だったので手足が冷たくなるのが辛かった。

今でも良く覚えているのは、マラソン大会のラジオ中継。
どこのマラソンだったかな?
大分別府とかそういう所のマラソンだったと思うけど、雪が多く降り積もったゲレンデでマラソンの中継を聴くということに何となく違和感があったのだろう。
同じ日本、九州だって岩手だって寒くて雪が降っているものと疑っていない子供の頃だったなぁ。

それでも、親父に強制的にせよスキーをさせられていたと言うことには感謝している。
なぜなら、そういう事がきっかけにでもならなければ、わざわざあんな寒いところへ行ってスキーをするということは無かっただろうと思う。

【私をスキーに連れてって:その1。】

スキーを始めたのはいつ頃だっただろう。
初めてゲレンデに行ったのは、残っている写真を見ると幼稚園の頃みたいだな。
そのころは、スキーブームというやつで親父とお袋がスキーをしていた。なので、ちょっとした旅行がてらにスキー場の近くの温泉に泊まってスキーという具合になったんじゃないかな。
その後は、いつも親父に連れられて行っていた。
子供を連れて遊びに行くというと、大義名分が立つのではないかな?
どこの家庭でもそうだと思うけど、お父さんだけが遊びに行くというのはかなり風当たりが強い。だから自分はいい出しに使われたのだと思う。
自分が自分自身で楽しくてスキーに行きたいと思うようになったのは、中学校の頃。それまでは何となく日曜日になると早起きさせられて車に乗っていた。

tag : #私をスキーに連れてって

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