とうとう高校生の時から通っていて、思い出も沢山あったロフトハウスが店を閉めた。
いつかどこかに書き込んだが、しばらく店は営業していなかった。マスターに会ったときも、店の譲渡を考えていると言っていた。
しばらくはそのままだったので、この経済が厳しい時代に買い手がつかなかったのかも知れない。
春ごろだったか、店内で改装をしているような人たちを見かけていたが、看板はそのままだった。
春が過ぎ、これから夏になろうとしていたときに、久しぶりに店の前を通りかかったが、そのときはもう違う店の看板になっており、夜には灯りも着いて営業をしているようだった。
初めて店に入ったのは、高校1年生の時。
サークル2:10の土曜ミーティングが終わったあとに、どこかでお茶すると言うのが恒例になっていた。秋ごろだったか、いつもとは違う喫茶店に行くというので、これまたいつものように先輩に着いてきたら、それがロフトハウスだった。
当時は店内にドアを開けて入っていくと壁の色は白系であり、5~6人座れるカウンターと2つのテーブル席があった。そして、正面の扉を開けると左側に階段、また正面にトイレのドアがあった。当時の階段は昇ったことが無いが、マスターが飲んで車で帰れなくなると泊まれるようになっていたらしい。
また、テーブル席の1つの後ろが階段の下で斜めになっており、少し置くの扉との間があったが、そこにはヒーターが置かれていたし、その上にはクローゼットのように上着を重ねて置いたりもした。
何年か経ってから店内の模様替えと、木の看板、それと良くある電灯で明るくなるコーヒー販売店提供の看板にロゴとマークが入った。ちなみにこのロゴとマークは俺の友達がデザインしたもので、それから閉店するまで使用されていた。
模様替えは壁の色を黒系統にして店内を落ち着いた雰囲気にした。そしてカウンター奥の食器などを置いてある棚の格子の扉を外した。やはり一々開け閉めするのは大変だったらしい。
壁紙の黒は、遠目には黒だがよく見ると銀のチェックが入っていた。
一番の大きな改装は、置くに少しのスペースを設けカラオケなんかの時にステージになるところを作ったこと。
俺は恥ずかしいのでそのステージで歌ったことは無いが、マスターがギターを弾いたりもしたことがある。
そういえば、そこにはマイクスタンドがあった。
大分昔のことなので記憶が違っているかも知れないが、黒の壁紙に改装したのと2階を作ったのは別のときだったと思う。
2階の泊まりに使っていたスペースを整理縮小、西側に大きなテーブルと2つぐらいの小さなテーブルを置いた。そして2階を使っての営業を始めた。
階段は相変わらず狭いままだったが、2階に上ってみると結構な広さのスペースがあった。
俺たち何時もの常連はは安い料金でずっと居座っているので、2階に追いやられた格好になったが、それはそれでとても楽しかった。よく来ていた高校生は長期の休みになると、宿題を持ち込んで図書館代わりにしていたし、俺はずっと暇つぶしに2階のソファにすわっていたりした。
それから何年かして日本がバブルに突入する少し前、ロフトハウスは2、3ヶ月の休みを取って大きな改装をする。それと同時に店舗を大家から買い取ったと聞いた。
マスターが泊まるためにあったスペースをつぶし、さらに2階を広げた。ちょっとしたパーティができるように大きなテーブルも用意、また2人用や4人用のテーブルも用意した。
そして2階への階段の位置を別のところに移設して、2階へのアクセスも楽になった。
また、カウンターの位置も変更し、マスターの活動も楽になったようだ。
俺のお気に入りの場所は、西側の道路に面したところにある、何人かで共用できる大きなテーブルがあるところ。
外を歩いている人を眺めるのが好きだった。
それからやがて日本はバブルに突入する。
それと同時に俺の仕事も忙しくなり、会社への道が変わってしまうと次第に足が遠のくようになってしまった。
それでもたまに覗いてみると、そこには全然知らない新しい常連さんがカウンターに座っている。大分繁盛していたようだった。
何年か前に店の前を通ると、普段は営業しているはずの時間に灯りが着いていないことに気が付いた。
いつ通っても灯りが着くことはなくなってしまった。
そうこうしているうちにまた時間が経ってしまった昨年の秋、ホームセンターでバッタリとマスターに会った。
実家の稲刈りの手伝いの帰りだという。
店に付いて、ずっと営業を止めていて、売りに出すことも考えているということだった。
高校生ぐらいの時からずっと心の支えになってくれた、あの店が無くなってしまったのはとても淋しい。
やはり新しい時代になってしまったのだと、考えさせられた。
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